道長の46人の孫たちが背負った宿命 孫同士で婚姻を重ねて天皇・皇后を輩出しながら権力を独占
■ライバルの家の娘を入内させないように牽制 道長は正妻・源倫子とのあいだに男子2人(長男・頼通/五男・教通)と女子4人(長女・彰子/次女・妍子/四女・威子/六女・嬉子)の6人をもうけた。 さらに妻妾・源明子とのあいだに男子4人(次男・頼宗/三男・顕信/四男・能信/六男・長家)と女子2人(三女・寛子/五女・尊子)の6人が誕生している。そのほか、妾だった源重光の娘との間に男子が1人(七男・長信)いた。合わせて男子7人、女子6人の計13人の子どもに恵まれたのである。 彰子、妍子、威子がそれぞれ天皇の妻となったことは、道長の栄華の象徴である。そして、外戚として権力を掌握し続けるという使命を背負わされたのが、道長の孫たちだった。庶子や養子を除き、『尊卑分脈』をはじめとする史料に記録が残っている道長の孫は46人。内訳は、男子28人、女子18人である。 まずは道長の孫のうち、天皇となった人物を整理しよう。 彰子は一条天皇の息子、敦成親王と敦良親王を産み、2人はそれぞれ後一条天皇、後朱雀天皇として即位する。また、嬉子は後朱雀天皇に入内し、親仁親王を出産。後に後冷泉天皇として即位した。この3人が、道長の孫にあたる。 では、天皇の妻になって皇后・中宮・女御といった身分になった人物は何人いたのだろうか? 後朱雀天皇には、皇后・禎子内親王(妍子と三条天皇の娘)と女御・生子(教通の長女)と延子(頼宗の次女)がいた。後朱雀天皇自身も道長の孫なので、いずれも孫同士の婚姻になる。 ちなみに、後朱雀天皇の中宮には嫄子という人物がおり、彼女は敦康親王の娘である。頼通の養女となったが、道長の孫ではないので計上しない(敦康親王が道長の甥なので血の繋がりはある)。 次代の後冷泉天皇の代では、唯一の「三后並立」の状態となった。つまり、皇后が2人、中宮が1人並立したのである。皇后には寛子(頼通の長女)と歓子(教通の三女)、中宮には章子内親王(威子と後一条天皇の長女)がいた。これまたいずれも孫同士の婚姻である。 その次の後三条天皇の中宮になったのが、馨子内親王(威子と後一条天皇の次女)で、女御には昭子(頼宗の三女)がいた。後三条天皇は道長の曽孫なので、この2組は曽孫と孫の婚姻となる。 ややこしくなってしまったが、道長の孫で、皇后・中宮・女御の身分を得たのは、8人ということになる。しかしこの8人の姫のうち、後三条天皇を産んだ禎子内親王を除けば、なかなか子どもに恵まれなかったり、男子ではなかったり、残念ながら夭折してしまったりといった状況だったために、外戚としての力を急速に失うことになるのである。 もちろん、天皇や皇后といった皇族の身分でない孫たちも、有力貴族との政略結婚や、一族内での結婚、それこそ孫同士での婚姻関係を築くなどした。男子も女子もそれぞれ偉大な道長の孫として、家のために生きていくのである。
歴史人編集部