埼玉の「イモビール」から、世界28カ国展開のクラフトビールに変革 「COEDOビール」開発秘話、その戦略の源流とは
「農家と生活者が、協同で日本の農業を切り開こう」という思いを社名に込めた協同商事は、もとは農産物の運搬や販売を主力事業としていたが、約30年前からビール事業に参入。オリジナルブランドのクラフトビール「COEDO(コエド)」を、現在は世界28カ国で販売されるまでに成長させた。36歳の若さで先代から社長を引き継いだ朝霧重治氏は、「COEDOビール」の生みの親でもある。今やクラフトビールの代表とも言える「COEDOビール」は、どんな想いを持って生まれたのか。開発秘話について話を聞いた。 【動画】なぜ事業承継が大切なのか専門家に聞いた。
◆なぜ、農業の会社がビール事業を
――協同商事がビール事業に参入するようになった経緯を教えてください。 協同商事がビール造りを始めたのは、1996年です。 私が入社したのは1998年ですから、入社前からビール事業はありました。 農業には、より品質の高い農作物を作るため、同じ畑で多様な作物を栽培する「輪作」「転作」という考え方があります。 協同商事も当時は農業をメイン事業としていたので、連作障害対策、つまり土作りのために麦を栽培しはじめました。 この麦を利用してビール造りを始めたのです。 背景には、1994年の酒税法改正でビール事業への参入が緩和されたこともありました。 ヨーロッパのボルドーやシャンパーニュは、作り手の技能よりも、原料となるブドウそのものの出来が商品価値のポイントになっています。 農業は、単なる一次産業ではなく、付加価値の高い加工やサービスを伴う産業になっているのです。 この点は、「農業で新しい日本を切り開く」という協同商事の理念にも一致します。 だから、ビール事業をスタートさせ、今では当社のメイン事業となっています。
◆地ビールブームは終わっていたが
――協同商事がビール事業に参入した後、地ビールブームが終わりましたが、撤退は考えなかったのですか。 当時、地ビールがブームで、川越のサツマイモを原料としたビールを、川越を示す「小江戸」という名で製造していました。 でも、私が協同商事に入社した直後、地ビールブームが過ぎ去ったんです。 多くの企業が地ビール産業から撤退していきましたが、協同商事は大きな額を投資していたこと、それから私自身がビールにはものすごい可能性があると感じていたこともあり、簡単に撤退するべきではないと考えました。 また、私の原風景として、強烈なビール体験がありました。 20歳の頃に初めて行った海外旅行で、ロンドンにたくさんのパブがあり、ビールの種類もいっぱいあり過ぎて何をオーダーしてよいのか分からなかったのです。 やっと頼んだ黒ビールは、グラスにひたひたになって出てきて、泡がない。次いでドイツのミュンヘンに行くと、今度はビアホールがあり、ロンドンとはまた違うビールカルチャーに出会いました。 私はそんなにたくさんお酒を飲む方ではありませんが、体験が楽しく強烈でした。 当時は、ビールに関係する仕事に就くことは想像していませんでしたが、こうした体験も背景にあったかもしれません。