日本一をつかんだ「奄美のチェフ」 アンプティサッカー、鹿実出身の隻腕GK
セルジオ越後氏も認めた働き
昨年の日本選手権に続き、今年5月の国内大会「第3回レオピン杯」も制した。決勝で初失点を喫したものの、4試合でわずか1失点だった。延長PK戦にもつれ込んだ決勝では、キッカーのコースを事前に読んでストップもあった。 “種明かし”をすると、所属するFC九州はフィールドに4人の日本代表選手を抱え、圧倒的なボール支配率を誇る国内屈指の強豪。被シュート数も最少クラスだ。ただ、東の加入前、九州は2大会続けて決勝で敗れていただけに、ビッグセーブやロングキックに加え、DFからのバックパスを危なげなく処理するなど、やはり新守護神の力は大きかった。「勝負を分けたのは九州のGK」。東のデビュー大会を見たセルジオ越後氏(日本アンプティサッカー協会最高顧問)の一言が全てを表している。
2014年のアンプティサッカーW杯で日本代表の正GKを務めた梅原健太郎(44)=TSA FC=に、彼のプレーについて聞いたことがある。梅原は左腕を切断する前、清水商業のFWとして名波浩や大岩剛らと全国制覇も経験したプレーヤーだった。「東くんは足元の精度がある。特に浮かせるボールはふわっと柔らかく、ペタッと落とすのは武器。残っているのが右腕で、キックは左足。体が開いて、真っすぐなボールを蹴られるのも大きい(注:梅原は右腕が残り、キックも右足)。手からセーブできるようになるのは難しいけど、胸トラップを使うとか、体で止めるように割り切ってもいいんじゃないかな」 東本人も、まずはGKに慣れる点を課題に挙げる。「飛ぶ練習もしているけど、足が先に出る。止められればいい、という考えもあるけど、高いボールへの反応は必要。初失点は(選手が)ブラインドで見えなかったけど、横っ飛びしていたら止められた。手から反応できたら、まだうまくなれる」
サッカーの原点はドリブル
向上心の源泉はどこにあるのか。東は小3のころ、地元・鹿児島市の西陵スポーツ少年団でサッカーを始めた。生まれつき左肘の先の部分がなく、手や足の指が短い障害があった。「幼稚園ぐらいの時から意識していました。みんなと一緒のことが出来ない。生活面というより、メンタル面への影響が大きかったですね」。スローインや、手を使うような競り合いの局面での不利。当初はサッカーでも引け目があったという。 少年を練習にかき立てたのは、ドリブルの魅力だった。「チームの練習が終わってから、公園でジグザグドリブルの練習をしていた。チームは強かったけど、自分が1番練習していたと思う」。中学では、部活の監督に見せられたボカ・ジュニアーズ時代のマラドーナの映像に夢中になった。自身の主戦場は左サイド。 「抜いたり、えぐったりするプレーにはまりました」。 中学ではレギュラーとして、県大会ベスト4を経験。県のトレセンにも選ばれた。「中学の先輩が進んでいたので」と名門・鹿児島実業の門をたたく。「1学年だけで70人ぐらい部員がいました」。入学前の3月、2日間のセレクションに臨んだが、1軍でプレーするという自信や希望は、分厚い壁にへし折られた。1学年上には元日本代表のMF松井大輔、DF那須大亮が、同学年には元JリーガーのFW田原豊がいた。「周りにうまいやつがいっぱいいました」。 1軍には届かなかったが、プレーへの情熱は尽きず、2年生で鹿実サッカー部のフットサルチームに転向。主に攻撃的ポジションで、県内の大学や社会人らと戦った。宮崎の専門学校に進学後は、自校のサッカー同好会だけでは飽きたらず、近くの大学サッカー部にも参加した。奄美市で就職後も社会人クラブに所属、30歳を過ぎてもプレーを続けていた。