養老孟司×小堀鴎一郎「生かす医療」から「死なせる医療」への転換をどう見極めるか?86歳・現役の2人が<高齢者の終末期医療>を考える
◆終末期の医療の難しさ 小堀 僕は基本的には、医者は患者を生かすべきだと思っているんです。老人の終末期は、がんの末期患者とは違う難しさがあります。つまり、ターニングポイントの判断が難しい。 「生かす医療」から「死なせる医療」への転換、すなわち「ターニングポイント」、治癒の可能性をどこでどう見極めるのか。僕は臨床医としての経験が長かったからかもしれないけれど、やはり肺炎は肺炎として治すべきだと思います。 ある男性が、お母さんから「もしもの時は、何もしないで死なせてくれ」と言われているけれど、そうすると、自分は警察に尋問される羽目にならないのか、と言っていたのですが、息子の立場なら、それを医者に伝えればいいでしょう。医者が何もしないわけにはいかないんです。 死に至るプロセスは人それぞれです。死ぬ数日前から食べられなくなる人もいれば、その前日まで自分で手洗いに行って、お風呂に入れる人、ずっと意識不明でほとんど寝たきりの状態が1カ月ぐらい続く人……と本当に千差万別ですから。
◆死を受け止める側 養老 僕はもともと、死んだ人と生きている人をそこまで区別して考えていませんでした。 これまでに何度も書いたり話してきましたが、4歳の時に親父が死んだのを目の前で見ていますが、やっぱり受け入れがたいんです。子どもにとっては理不尽でしょう。 うちは異父兄弟で、兄と姉の父親は別の人でしたから、自分の父親だけ死んでいるのは納得がいかなかったんです。 小堀 死因は結核ですか? 養老 そうです。僕の中で、父は長い間生きていたんです。 人は死にますが、受け止める側にとっては簡単に死ぬわけではありません。だから一周忌や三回忌をやるんです。それで、死んだ人のことをだんだん忘れていることに気づきます。 忘れてはいけないということではなくて、だいぶ忘れているということに気づく。それでいいんですよ。覚えている人はそれで慰められます。そうやって死んだ人を大切にしているんです。法事に意味がないわけではないのですが、今はお坊さんですら、その意味がわからなくなっています。
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