養老孟司×小堀鴎一郎「生かす医療」から「死なせる医療」への転換をどう見極めるか?86歳・現役の2人が<高齢者の終末期医療>を考える
◆死は常に二人称で存在する 養老 死は常に二人称として存在します。一人称の死というのは自分の死ですが、自分の死は見ることができませんから、存在しないのと同じです。その体験を語れる人はいません。 三人称の死は、自分とは関係のない人の死です。そういう三人称の死は、死体を「もの」として扱うことができます。死が自分に影響を与えるのは二人称の死だけです。 死の社会的な意味合いは大きい。だから要件を決めて判定しようとします。例えば、高齢の政治家が死んだと聞いても、もう死んでもいいよな、と思うのは、社会的意味合いとしてです。 この前、土曜日にぶらぶら歩いていたら「養老さんじゃないですか」と学生が近づいてきて。何かと思ったら「まだ生きていたんですね」「もう歴史上の人物ですよ」と言われました。彼にとって僕は三人称ですから、生きているか死んでいるかはどうだっていいんです。 ※本稿は、『死を受け入れること ―生と死をめぐる対話―』(祥伝社)の一部を再編集したものです。
養老孟司,小堀鴎一郎
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