紫式部が反論した「自分への悪口とあだ名」の呆れた中身。 宮中でほかの女房から目の敵にされたことも。
すると、中宮彰子からは「最初はあなたと心を割ってお付き合いができると思ってもいませんでしたが、不思議なことに、ほかの人よりも、とても仲良くなりましたね」とおっしゃっていただいたこともあったようです。 「一癖ありつい気兼ねしてしまう上臈の女房たちにも、不快に思われずに、ちゃんと(自分)を見ていただけるようにしたいものです」と紫式部は記します(※平安時代の女房は上から、上臈、中臈、下臈と、序列がありました。紫式部は中臈だったとされています)。
紫式部が鬱陶しいと批判してきた人々は、おそらく、上臈の女房の中にいるのでしょう。 ■紫式部が思う「女房としての心構え」 一方で、紫式部は女房としての心構えも、日記の中でつづっています。 女房は、雰囲気がよく、人当たりも穏やか。心に少し余裕を持ち、落ち着いていなければならない。そうすると「教養も風情も魅力となり、安心して見ていられる」し、人柄が素直であれば、他人から毛嫌いされることはないと、紫式部は説きます。
逆に「我こそが」という気持ちで振る舞って、態度も大げさになると、他人から変な目で見られてしまい、注目が集まってしまいます。 注目が集まると、その人の言葉や動作の中から、必ず欠点が顕わになってしまいます。なぜなら、人のことを貶したり、見下したりする人は、あら探しをするからです。 でも「我こそが」と振る舞わず、癖がない人であるならば、つまらない噂が流れたとしても、情けをかけてやりたくなる。そう紫式部は述べています。
女房たちと生活を送る中で、紫式部自身も自分の悪口が聞こえてくることがあったようでした。 左衛門の内侍(彰子の女房)は、紫式部をなぜか目の敵にして、不愉快な陰口を叩いていたようです。 例えば、帝(一条天皇)が紫式部が執筆した『源氏物語』をほかの女房たちに朗読させたことがありました。そのとき、帝は「この物語の作者に、日本書紀を読み解いてほしい。実に漢文の素養があるようだ」と仰せになりました。 これを聞いた左衛門の内侍は「紫式部は漢文の素養がとてもある」と殿上人に言いふらし、紫式部に「日本書紀講師女房様」というあだ名まで付けたとのこと。紫式部としては、馬鹿にされたと思ったのでしょう。