「きみ、あんまり働きなや」松下幸之助が、赤字を出した責任者に放った言葉の真意
従業員のことを思うと......
大正14(1925)年、幸之助は近隣の人たちの推薦を受けて、大阪市の連合区会議員の選挙に立候補、当選したが、その選挙運動を通じて17歳年長のある区会議員の知遇を得た。 ある日、幸之助は街角で偶然この人に出会い、久しぶりだということで、レストランに誘わた。"お茶でも"という幸之助の心づもりに反してこの人は、豪華なランチを2人前注文した。ところが運ばれてきた食事に幸之助は容易に手をつけようとしない。体の調子でも悪いのかといぶかる相手に、幸之助は申しわけなさそうに答えた。 「従業員の人たちが今、汗水たらして一所懸命に働いてくれていることがふと頭に浮かびましてね。それを思うと、私だけこんなご馳走を、申しわけなくてよう食べんのです」 感銘したこの人は、以後いっそう幸之助に対する信頼を深め、のちにはついに、自分の商売をやめて松下電器に入り、幸之助に協力することになった。
一人も解雇したらあかん
昭和4(1929)年5月、松下電器は待望の第二次本店・工場の新築がなり、第二の発展期を迎えた。従業員約300名、まだ町工場の域を出ないとはいうものの、発展に発展を続ける姿は業界でも目立つ存在であった。 そんなおりもおり、世界恐慌が起こった。国内では濱口内閣が緊縮政策をとり、ほどなく金解禁を断行、経済界は萎縮し、不況が深刻さを増していた。そこへ世界恐慌である。産業界は二重の打撃を受け、株価は暴落、企業の倒産が全国に広がった。労働争議が起こり、農村では娘の身売りが相次ぎ、社会問題になっていた。 電機業界でも多数のメーカーが倒産したが、松下も販売が半分以下に急減、たちまち在庫が増え、12月には倉庫がいっぱいで製品の置き場もなくなるという創業以来の深刻な事態に直面した。 そのころ幸之助は病床にあった。幸之助に代わって采配を振るっていた2人の幹部が、対応策を持って幸之助を訪ねた。 「オヤジさん、販売が半分に減り、倉庫は在庫の山です。この危機を乗り切るためには従業員を半減するしかありません」 報告を聞き終えた幸之助は、しばらく沈思してから口を開いた。 「なあ、わしはこう思うんや。松下がきょう終わるんであれば、きみらの言うてくれるとおり従業員を解雇してもええ。けど、わしは将来、松下電器をさらに大きくしようと思うとる。だから、一人といえども解雇したらあかん。会社の都合で人を採用したり、解雇したりでは、働く者も不安を覚えるやろ。大をなそうとする松下としては、それは耐えられんことや。みんなの力で立て直すんや」 そして具体的な方法を示した。 「ええか、生産を直ちに半減して、工場は半日勤務にする。しかし従業員の給料は全額を支給する。その代わり、店員は全員、休日を返上し、在庫品の販売に全力をあげてもらおう」 この決断は従業員を奮い立たせた。 「さすがはオヤジさんだ。みんなで力を合わせてがんばろう」 社内にたれこめていた暗雲は瞬時に吹き飛んでいた。それから2カ月、全員のしゃにむにの努力が実を結び、在庫は一掃されて倉庫は空になった。社員の結束力が、いっそう強まったのは言うまでもない。
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