「きみ、あんまり働きなや」松下幸之助が、赤字を出した責任者に放った言葉の真意
きみ、あんまり働きなや
昭和37(1962)年10月、松下電器は、台湾松下電器を現地資本と合弁で設立した。人員は100人あまり、主製品はラジオとステレオ。しかし、当初、経営は非常に厳しく、設立から約1年で資本金にほぼ等しい赤字が生じていた。 出向責任者がその間の事情を報告に幸之助のところへやってきた。20分ほど、じっと報告に聞き入っていた幸之助は、「きみ、せっかく台湾から帰ってきたんやから、ひとつみやげをやろう」と初めて口を開いた。 「きみ、あんまり働きなや」 芳しくない報告をしたあとだけに、叱咤激励されるものとばかり思っていた責任者は驚いた。 「台湾松下が今、月々損を重ねているのは、責任者であるきみからすれば、たまらんことやろう。けれどもこの損は、工場が十分に稼動していない、販売網もまだできていないために出てきている損や。 そんなときにきみな、あわてて物つくって、不良を出したときの損は大きいで。販売網もろくにできていないのに変な売り方をして、貸し倒れになったとしたら、えらい損するで。だから、十分工場が稼動して、販売網も整うまでは決してあせったらいかん。あんまり働いたらいかんな」
6割は気に入らんけれども
「きみのとこ今、部下何人おるのや」 幸之助が、ある課長に言った。 「主任が3人おります」 「その3人は、きみの言うことをよく聞いてくれるか」 「はあ、よく聞いてくれます」 「それは結構や。ところできみな、ぼくはいろいろ決裁しておるやろ。それを見て、世間ではぼくのことをよくワンマンだとか言っているらしいが、しかしな、ぼくが初めからこれでいいと思って決裁しているのはだいたい4割ぐらいやで。あとの6割は気に入らんところもあるけどオーケーしているんや」 「はあ」 「しかしな、きみ、そのオーケーしたことが実現するまでに、少しずつ自分の考えているほうに近づけていくんや。もちろん、命令して自分の思うように事を進めるのも一つの行き方ではあるけど、一応決裁はするが、そのあと徐々に自分のほうに近づいてこさせるのも、責任者としてのまた一つの行き方だと思うんや」 *こうした姿勢を幸之助は「従いつつ導く」と表現していた。部下のやる気を極力損なわない配慮をしていたのである。