2万人以上が戦死。なぜ硫黄島を巡る戦いは苛烈を極めたのか?島の陥落を境に、米軍の日本本土爆撃の成果は格段に上がり…
◆「硫黄島はB29の天国」 『戦史叢書』によると、硫黄島の航空基地化は、日本海軍が1933年に南部で飛行場を整備したことが起源だ。 その後、戦局悪化とともに滑走路の拡充が進んだ。最終的には島南部の「千鳥飛行場」のほか、中央部に「元山飛行場」、その北側に「北飛行場」を整備した。 1945年2月19日に硫黄島に上陸した米軍は、日本側守備隊との戦闘と並行して、重機を使った元山飛行場の拡張工事に着手した。 B29が離発着するためにはより長い滑走路が必要だったからだ。 その滑走路にB29が初着陸したのは米軍上陸から2週間後の3月4日だった。 これを皮切りに硫黄島は、日本本土爆撃作戦で被弾・故障したB29の緊急着陸地となった。終戦までの着陸数は2000機を超えたとされる。 「硫黄島はB29の天国」。そう記された米側戦記もある。
◆玉砕間際の電報 占領後の硫黄島には、戦闘機P51が多数進出した。 硫黄島発のP51の本土攻撃は一つに「武蔵野空襲」がある。 東京都武蔵野の工場地帯を狙った爆撃。硫黄島守備隊が「散ルゾ悲シキ」との訣別電報を残して玉砕してからわずか10日余り後のことだ。 米軍側記録によると、B29による再三の武蔵野空襲は当初「成果貧弱」「成果不十分」と評価され続けていた。 それが硫黄島陥落を境に「成果優秀」に転じた。硫黄島発のP51の護衛により、従来よりも低い高度からの昼間爆撃が可能になったため、とされる。 硫黄島の戦闘機部隊は終戦までの4ヵ月で1700回以上、出撃した。 硫黄島守備隊の最高指揮官栗林忠道中将は玉砕間際の硫黄島からこんな電報を本土に発していた。 「(島の)要地(航空基地)ヲ敵手ニ委(ユダ)ヌル外ナキニ至リシハ小職ノ誠ニ恐懼(キョウク)ニ堪(タ)ヘサル所ニシテ幾重ニモ御詫申上ク」 栗林中将の予見は死後、的中したのだった。 ※本稿は、『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(講談社)の一部を再編集したものです。
酒井聡平
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