《引退》ヤクルト・青木宣親、後輩が明かす「プロでの活躍がイメージできない『叱られ役』だった」早大時代
自由に打たせてもらえない
止まることを知らない21年のプロ生活だった。積み上げたヒットは歴代6位の日米通算2703本。身長175cmとプロ野球の世界では小柄な部類で、宮崎県立日向高校時代は全国的には無名の存在だったヤクルト・青木宣親が稀代のヒットマンとなりえたのは、なぜか。 【一覧】プロ野球「最も愛された監督ランキング30」最下位は、まさかの… 早大、ヤクルトで公私をともにした後輩である武内晋一氏(現ヤクルト編成部)が語り尽くす(記録は9月30日現在)。 武内氏が早大に入学した2002年。2学年上の青木は3年生となり、同年の春のリーグ戦からレギュラーを手にして1試合6得点のリーグ記録を作るなど脚光を浴び始めるのだが、武内氏がそれを予感することはなかった。 「青木さんの同期には鳥谷敬さんや比嘉寿光さん、由田慎太郎さんと他にもプロに行くような選手がいて、大学に入って印象に残ったということで言えば鳥谷さんとかになります。青木さんもリーグ戦はセンターで試合に出ていたんですけど、なにかあれば外されるような立ち位置だったと思います。 バッティング練習も当時の野村徹監督に逆方向に打つように言われて、ずっと三遊間にゴロを打っていた。目を見張る打球を打ったところも見たことがない。試合で、こういうバッティングもできるんだと巧さを感じるようなことはありましたけど、それは青木さんだけじゃなかった。大学時代、バッティングですごいなと思ったことはなかったですね」 武内氏は智辯和歌山高校2年時に夏の甲子園優勝を経験。高校通算47本塁打、早大でも1年春からレギュラーに定着した世代屈指の強打者だったとはいえ、青木に特別ななにかを見出すことはなかったそうだ。野村監督も鳥谷などにはある程度、本人に任せる部分があったが、青木には厳しく接し続けていたという。
「青木さんはほかの人とは違う」
「守備のことでもよく口うるさく指導されていましたけど、やっぱり足が速かったですし、野村監督はポテンシャルの高さを感じてレギュラーで使いたいという考えがあったんだと思います。ただ、どちらかというと叱られ役みたいな感じで、プロでこれほどの成功を収めた今の青木さんからは想像もできないほど当時の印象は違うものでした」 そんな中でも、青木はひたむきだった。武内氏の記憶の中で鮮やかなのも、そうした姿だ。 「全体練習が終わってからの自分の時間では、室内で様々な練習をやっていました。ティーバッティングも上から落とした球をとらえるとか、何種類ものやり方で打ったり、ほかの人とは違うことをやっていたイメージは強いです。話をしていても『体をこう使ったらバッティングはこうなる』とか、『インパクトのときにこういう形を作れればもう少し強い打球が打てる』とか、常にいろいろなことを考えながら野球をやっているんだなと感じました。 練習量も多い方でしたけど、そういう探求心。それはすごかったです。しかも、そのときある野球やバッティングの常識に縛られることなく、自分なりの考えを持って練習していたと思います」 青木は3年生の秋季リーグでは首位打者を獲得。翌秋のドラフトでヤクルトから4位指名を受けてプロ入り。その2年後、武内氏は希望入団枠で奇しくも同じユニフォームに袖を通すことになる。迎えた春季キャンプ。久しぶりに青木のバッティングを目の当たりにした武内氏は、驚愕したという。