いまの時代、芸術は「ぜいたく」なのか? ディストピアな世界観を通して描かれる、現代社会が直面している息苦しさ
芸術を志す大きな「理由」
どうして自分が音楽を奏でたいのか、自信を持てずに思い悩むロピのすがたは、なにもない沙地に放り出されて一人きり、路頭で迷っているようでもあります。そんな彼女が「理由」を見つけるきっかけとなったのは、彼女にとってのオアシス――人気のない沙地を歩いているときに見つけた、廃墟と小池でした。ロピは廃墟のなかに置かれていた手記に倣って建物に「別荘」と名付け、小池に棲む小魚にだけ、自らの演奏を聴かせるようになります。そしてロピはあるとき、別荘の地下から大量のレコード盤を発見することになるのです。レコード盤に内蔵されている音楽は、かつてそのひとが存在していた証でもあります。ロピはそれを手に入れ、引き継ぐことで初めて、自分がいなくなっても未来に残っていくはてしない音楽に想いを馳せるのです。 たとえいまは芸術が「ぜいたく」だとしても、将来さらに社会が変わったとき、だれかの希望となるかもしれない。ロピの想いは翻って、いまこの瞬間を生きている自分自身への希望にもなりえます。それだけでも、芸術を志す大きな「理由」になるはずです。芸術は、「◯◯をしてはいけない」――たとえば「ぜいたくしてはいけない」――と抑圧されているときこそ、埋もれてしまいそうな自らの存在を証明して、後世に残していく手段になるのですから。 一方、現代の「ぜいたく」が必ずしも抑圧からくるとは限りません。あらゆるものの機械化が進み便利になっていく世の中において、自ら不便な方法を選ぶのは、コスパもタイパも悪い、ある種のぜいたくでもあります。 そしてそれは――機械が創作物を自動で生成するようになった私たちの暮らす現代社会が、いずれ迎えようとしている未来でもあるでしょう。
現実にも立ちはだかる「機械との共存」の模索
物語後半では時代が進み、第九オアシスが沙に埋もれてから五十年後が舞台となります。そのあいだに〈クリエイター〉は創作物の保存だけでなく生成まで行うようになりました。そしてロピにかわって主人公となるルウシュも、沙地に囲まれるなかでどこに行けばいいのかわからず、将来の進路に悩んでいる学生です。気象予報士になるつもりだったルウシュは、手づくりの演劇をする「劇団みずうみ」から詩作の協力を頼まれたのを機に、自ら詩を書く楽しさに気づいていきます。しかし、機械が創作物の生成を担うようになったなか、手づくりにどこまで意味があるのでしょうか? この問いかけからはじまる人間と機械が共存できる道の模索は、私たちの生きる現代社会が向き合わなければいけない問題です。そしてルウシュもやがて、人によって創られた「芸術」を――そのひとが存在していた証を――引き継いでいくことになります。 タイトルにもなっている『肺魚』とは雨期のあいだ水たまりで過ごし、水たまりが干上がると、身体に膜をつくって土のなかで次の雨を待つ魚です。その生きざまは沙に埋まったレコード盤のように辛抱強くもあります。そしてロピがレコード盤を見つけ出せたように、何度でも沙から顔を出して息をします。存在していると、証明するのです。 だからこそ、これから芸術がさらに「ぜいたく」とされる世の中になったとしても、芸術という魚を絶やしてしまうわけにはいきません。過去からいま、いまから未来へとバトンをつないでいく――そうすれば誰かの希望となって、未来を少しでも潤わせられるはずです。小説という「芸術」をもってして、一筋の希望を後世に継いでいこうとする鯨井あめさんの決意が、本作にはこめられています。 ---------- 鯨井あめさんの『沙を噛め、肺魚』は全国の書店にて販売中。 鯨井 あめ(くじらい・あめ) 1998年生まれ。兵庫県豊岡市出身。兵庫県在住。2015年より小説サイトに投稿を開始。2017年に「文学フリマ短編小説賞」優秀賞を受賞。2019年に「晴れ、時々くらげを呼ぶ」で第14回小説現代長編新人賞を受賞し、翌年に同作でデビュー。他著に『アイアムマイヒーロー! 』『きらめきを落としても』がある。 ----------
あわい ゆき(書評家)