いまの時代、芸術は「ぜいたく」なのか? ディストピアな世界観を通して描かれる、現代社会が直面している息苦しさ
『晴れ、時々くらげを呼ぶ』で第14回小説現代長編新人賞を受賞し、文芸の最前線に立つ若手作家としていま最も注目を集めている鯨井あめさん。 そんな鯨井さんが1年ぶりに世へと送り出す待望の新作『沙を噛め、肺魚』が、5月29日に発売されました。 鯨井さんにとって初めてのディストピア小説でもある本作を、気鋭の書評家はどう読み解くのか? 今回はあわいゆきさんによる書評を公開します。 【画像】沙で乾いた世界を生きる人々の生活 ---------- 鯨井あめ『沙を噛め、肺魚』 沙に覆われてしまった世界。人々は何よりも安定を目指すようになっていた。 安定した仕事で稼いで、機械で娯楽を享受して、どこに遠出することもなく、安全で、快適な、この街で、ささやかな幸せが至上。 それでも音楽が好きな少女・ロピは第9オアシスでパパと二人で暮らしている。親友のエーナや周りの大人に反対されながら、自分の音楽を追い求める。 特にやりたいこともない少年・ルウシュは、母と同じ気象予報士になるため日々勉強していた。いっぽうで好きなことに一生懸命な友人に劣等感は強まり、夢中になれることを探しはじめ…… 青春小説の旗手が将来に悩むZ世代に捧ぐ、傑作のディストピア長編。 ----------
「ぜいたく」は敵?
「ぜいたくは敵だ」というスローガンがあります。第二次世界大戦中、日本が戦争に勝つべく掲げたこの言葉を、現代で過信しているひとはそうそういないはずです。 しかし――敵ではないにせよ、「ぜいたくをしてはいけない」と自らの生活に楔を打ち込んでいるひとは多いのではないでしょうか? 税率が上がり、物価も上がり続けているなか、高度経済成長期の好景気はもはや過ぎ去った幻にすぎません。映画を一本観るのも本を一冊買うのも負担が大きくなり、最新の芸術に触れることすら、容易ではなくなりつつあります。 砂上の楼閣のように、いつ崩壊してしまうかわからない現代社会――慣れ親しんできた芸術が「ぜいたく」になる時代は、少しずつ近づいているのです。 そして『沙を噛め、肺魚』では、そびえていたはずの砂上の楼閣すら、すでに吹かれてしまっています。海風に乗って巻き上がった石英の粒が絶えなく降り積る〈大沙嵐〉によって土地の大半が白い沙で埋まってしまい、かつて積み上げてきた文化がほとんど喪われてしまったからです。沙の大地に囲まれた世界では当然ぜいたくも望めず、外周を沙堤防で囲んだ第九オアシスの内側で、学生のロピは進路選択に悩んでいました。歌うのも弾くのも好きで、将来は「音楽隊」として音楽を奏でたい。しかし周りの若者は人手不足により、次々と就職をしていく。それに〈クリエイター〉と呼ばれる機械が過去の名作を保存しており、いつでも触れられるようになっている。供給が事足りている芸術を志しても、沙の脅威に晒される現状には貢献できない……。芸術の道を気兼ねなく選べる、余裕のある世の中ではありません。 だとすれば、切羽詰まった環境下で、「ぜいたく」な芸術をなぜ選びたいと願うのでしょうか?