有森裕子(元マラソン日本代表)の名言「初めて自分で自分をほめたいと思います」──パリ2024オリンピック特集「レジェンドが名場面を振り返る」
有森裕子(元マラソン日本代表)が語るオリンピックの思い出とは? パリ2024オリンピックの展望にも注目! 【写真を見る】バルセロナ、アトランタの名場面をチェック!
有森裕子が振り返る「私のオリンピック」
7月26日のパリ五輪開幕を前に、レジェンドたちがオリンピックの思い出を語る短期集中連載がスタート。石川佳純(卓球)、澤穂希(サッカー)、有森裕子(マラソン)、内村航平(体操)の4名のオリンピアンが、それぞれのオリンピックを語り尽くす。 ──有森さんが出場したバルセロナ、アトランタ大会の前、記憶に残っているオリンピックはあったのでしょうか? 女子マラソンでロザ・モタが優勝したソウル大会です。ロザ・モタがとにかく楽しそうで。マラソンって苦しいものだと思っていましたし、当時の日本人選手を見ると、悲壮感満載。やっていて本当に楽しいんだろうか?という競技だったはずなんです。 ──特にオリンピックのプレッシャーもあって、楽しそうな印象はなかったですね。 だから、ロザ・モタのゴールを見た時は衝撃を受けました。こんなにも満面の笑顔でゴールできる競技だったのか、と。達成感にあふれる競技を再認識させてくれたという意味で印象に残っています。とにかくソウル大会はあのシーンですよね。 ──世界陸上を含めて、重圧、プレッシャーがかかる国際大会に参加してきたと思うのですが、オリンピックの重圧をどのように乗り越えてきたのでしょうか? これは言葉のマジックなんです。たしかにオリンピックってすごい大会ではあるんですけど、重圧も結局本人次第。周囲はもちろん、自分自身も含めた期待度が高いのが原因なんですよ。過剰な期待感との戦いであることを本人が自覚できるかどうか。結局はやるべき準備をしっかりやる、これしかないんです。一方で、自分の感覚を狂わすというもの事実。それも含めて価値の高い大会です。 ──自己暗示にかかってしまうのでしょうね。 魔者が棲むというやつですよね。オリンピックでは通常では起こりえない大逆転や奇跡的なことが起こる。怪我をしない人が怪我をする。狂うはずのないものが狂う。そんなイメージが染み付いているというか。だからこそ、そこに過剰反応してしまうわけです。いずれにせよ、“いつも通り”を持ちこみ過ぎるんですよ、オリンピックに対して。ちょっとでも“いつも通り”が崩れると、もうパニック。驚きや狂いの方に気持ちが向いてしまう。そんな状況をわかりやすく説明する表現として、オリンピックという大会がそうしている、そうさせたというふうになるのかもしれません。2回目に出場したアトランタ大会ぐらいから、このように俯瞰して考えられるようになったと思います。 ──バルセロナとアトランタでは心の持ちようが違っていたのでしょうね。 もう全然違いますね。初めてのオリンピックは私にとってのすべて。「オリンピックに出られたら死んでもいい」とよく言いますけど、そんな感覚でした。でも「オリンピックって自分の人生の位置付けの何なんだ?」って思わされたのがバルセロナ大会の後でした。オリンピックはその人の人生を前に進ませるものなのか、あるいは「頑張ったね~、すごいね~、終わり」と思わせるものなのか。その結論が出ないままバルセロナ大会が終わってしまったので、次のアトランタに行くまでの4年間はとにかく考え続けましたね。「みんなは何で目指すんだろう、何でメダルを取ろうとするのだろう、自分は結局何をしようとしているのだろうか」と、自分と向き合わざるを得ない。バルセロナが終わった後はそんな状態でした。 ──それくらいオリンピックというネーミングに翻弄されてしまうのでしょうね。それでも、みんな大好きなんですよ、オリンピックが。 他の大会でも同じような感動的なシーンがあるのに、「オリンピックだけは違う」と言ってしまう。その根拠はあまり明快じゃないんですよ。でもそこに、そういう思いを乗せてしまっているから、いろいろな言葉が生まれてしまっているだけで。魔物なんか棲んでいません。 ──バルセロナとアトランタ、オリンピックの見え方は変わったんでしょうか。 オリンピックというものに対する自分の人生の位置付けが変わりましたね。バルセロナは先ほど言ったように「オリンピックに出たい、行きたい、メダルが取れた、やったー」という、本当にシンプルなもの。オリンピックを経験したら、何かそこからいい変化が起きるだろう、起こせるだろうという漠然とした未来を見ようとしたのがバルセロナです。 アトランタは、未来はそんなに単純ではないと気づいた大会。大会が終わってからも私たちは生きていかなきゃいけないわけですから、このオリンピックを自分の人生にどう活かすか、という考え方にシフトしたのがアトランタでした。オリンピックというブランドを手に入れて、自分の人生を前に進める、自分で歩むための道筋を作っていくんだという明快な思いが芽生えたわけです。自分はなぜオリンピックで走るのか、その答えが見つかったのがアトランタでした。だからもう、周りの声や周りの期待、周りの外圧的なものは一切無視していました。一切自分には関係なかったですね、正直。 ──そういう経緯、背景があって「初めて自分で自分をほめたいと思います」に繋がっているわけですね。 よくあのコメントに至るまでやり遂げたなというのは、何度見ても思いますし、感じます。あのコメント以外にあてはまるものはないですよね。もちろん、自分で自分をほめたいっていう、あれだけがポンと出たわけじゃない。それまでの軌跡を振り返るインタビューを受けて、「だよな、よし、よくぞやった」と本当に思ったんです。あれは素直な自分の反応だったと思います。自分自身が自分に納得できた。あのシーンは今でも良かったなと思います。今、あの場面に戻っても同じことを言うでしょうね。 ──アトランタの銅メダルは予想していた結果だったのでしょうか。 まずですね、「メダルを取りたい」じゃなかったんですよ。もう取らなきゃいけない。何色でもいい。もう何色でもいいからメダルを手にしないとその後の人生を切り開くことができないという感覚です。バルセロナは出たかった、アトランタは出なきゃ。wantじゃなくてmust。その後の人生を生きていくために、このオリンピックが役に立ってくれなければ困る、という感じ。オリンピックというブランドをもう一回つかまなければいけない。行くだけじゃない、行くだけじゃダメだから、メダルを取らなきゃっていう。だから色はですね、何色でももう全然関係なかったんですよ。何色でもいい、とにかくメダルっていう、そういう思いでした。 ──自分で自分に重圧をかけにいったということになるんでしょうか。 そうですね。当時の日記を見ても、自分で自分に苦しみを与えるようなネガティブな言葉が並んでいます。だから誰かに手紙を書くとか、電話をするとか、もう一切やらなかったです。練習日誌以外は。ちょっと極端な言い方をすると、手紙を書いても、電話しても、返ってくるのは慰めか、応援なわけです。素直に受け入れられなかったと思います、あの時の自分は。何を言われても、何が返ってきても、やらなきゃならないことは同じ。自分は弱くなりたくなかったですし、そういう弱い自分を感じることさえも嫌だった。 ──大変驚きました。今の時代であれば、メンタルコーチが助言するのでしょうね。 そうですね。あの時もいろいろな人が気を遣ってくれていましたが、当時の練習パートナーもすごく近寄りづらかったらしくて。近寄らせなかったし、気を遣われていることを感じることも嫌だったんですよ、とにかく。 ──見えてしまいますもんね、そういうものって。 気を遣わせている自分が嫌でした。でも望む望まないに関係なく周りは気を遣うわけじゃないですか。もう結果を出した方が一番早いというか、楽なんですよね。気を遣ってくれている周囲には結果でお返しするしかなかった。極端過ぎるかもしれないけれど、強烈に孤独にしましたね、自分を。 ──そこまで追い込んでいたのですね。今同じような状況に置かれても、同じように行動するのでしょうね。 そうですね。そういう自分が嫌じゃないんですよ。嫌じゃないというか、不器用だなあとも思うし、もうちょっとうまく振る舞えればとは思うんですけど、その自分を変えようとは思わないです。