勝海舟が開設した神戸海軍操練所の実相、坂本龍馬は塾頭どころか入ることすらできなかった?失脚と操練所閉所の関係
■ 勝海舟の失脚と操練所の閉所 開所からわずか5カ月後の元治元年(1864)10月22日、勝に対して江戸への召喚命令が出された。11月2日に江戸に着くと、10日には軍艦奉行を罷免され、勝塾は即刻閉鎖を申し渡されたのだ。当然のことながら、操練所も一気に廃れてしまい、正式には翌慶応元年(1865)3月18日に閉所となった。 勝失脚(=海軍操練所の閉所)となったのは、新選組が尊王志士を襲撃した「池田屋事件」(元治元年6月5日)および復権を求めて率兵上京した長州藩を撃退した「禁門の変」(同7月19日)に、勝塾生が関与をしていたためである。例えば、土佐藩浪士の望月亀弥太は池田屋事件に遭遇して犠牲になっている。 勝の弟子たちがこうした反幕府的な事件に関与したことで、勝の幕臣にあるまじき人間関係が問題視された。そのため、勝の召還、そして罷免に発展したのは当然の帰結であろう。龍馬らは、最大の庇護者である勝を失い、あらたな居場所を求めざるを得なくなった。その彼らを丸抱えしたのが、薩摩藩であり、龍馬が薩摩藩士として活躍する背景となったのだ。
■ 坂本龍馬の海軍構想 最後に、勝海舟の最も知られた弟子である坂本龍馬の海軍構想について、言及してみたい。朝廷は攘夷実行を促すため、文久3年7月17日、監察使として国事寄人の四条隆謌を播磨および淡路に派遣した。その四条に対して、龍馬は無二念打払いを回避し、止むを得ない場合でも、今まで付き合いがあったオランダ船や中国船は区別すべきであることを、また海軍の設置についても、建言しようと画策したのだ。 結局、龍馬の建言は実現の運びには至らなかった。しかし、龍馬がしようとした建言内容から判断すると、そこには龍馬の国事周旋への積極性とともに、未来攘夷に沿った海軍建設への志向が読み取れる。龍馬は具体的な海軍建設について、西日本における海軍基地を神戸と定め、勅命によって総督を指名すること、また、身分を問わず人材を集め、経費は西国諸侯が負うことを構想していた。 龍馬には、14代将軍徳川家茂が操練所を開設する許可を出しても、幕府主導での実現は困難との認識があったのだろう。一方で、操練所を国家のものと見なし、幕府に独占させることは回避しようとする深謀も潜んでいたのかも知れない。 いずれにしろ、これは勝の構想に近く、さらに言えば、横井小楠も同様な海軍構想を示している。このことから、龍馬は両者から影響を受けていたと言えるのではなかろうか。
町田 明広