《ブラジル》特別寄稿=投下79年目に読み返したい原爆文学=米国日系作家ヒサエ・ヤマモト=サンパウロ市在住 毛利律子
「原爆の疫病」(これは文学ではなく、一ジャーナリストの記事)
ロンドンのデイリー・エキスプレス特派員であったウィルフレッド・バーチェット記者は被爆直後の昭和20(1945)年9月に原爆都市となった広島に入った最初の連合軍記者であり、「原爆の疫病」はその現状を書いた貴重な記事のタイトルである。(https://hiroshimaforpeace.com/hiroshimakenshi-nomorehiroshima/) 記事の中では次のように記述されている。(記事の一部のみ記載) ★ 突然、そして恐ろしいことに、我々は戦争を終わらせるか、あるいは我々すべてを滅ぼす機械を発明したという事実を知った。そこで、私は、「毎日、約百人の割合で」患者が死亡しているのを目にした。 爆心地に近い所では、何千とあったはずの死者の痕跡がない。消失したのだ。広島市、および医師団の説では、原子力の熱度(3千~4千度)があまりにも高いので、瞬間に灰燼に帰したのだと――ただそこには灰すら残らなかった。 この原爆の最初の実験場で、私は最も恐ろしい戦慄すべき荒廃の姿をこの眼で見た。広島の警察署長は私を被爆した患者の治療が行われている病院に連れて行ってくれた。 これら病院には、爆弾の落ちたとき、全く傷を負わなかった者が今や、薄気味悪い後遺症で死んでゆく人たちがいた。はっきりした原因もなく、どんどん病弱になってゆく。食欲がなくなる。髪の毛が抜ける。体には青い斑点が現われた。そして耳、鼻、口からは出血した。 医者がいうには、最初、症状は一般の衰弱の兆候だろうと思ったという。患者にはビタミンAの注射をした。結果はおそろしいものだった。注射針でできた穴の所から皮膚が腐りはじめた。そしてそのいずれの場合も、被爆者は死亡した。 これが、私の見た、人間の落とした最初の原爆の後遺症の一例だが、私はそれ以上の症例は見たくなかった。 ★ ここに全文を紹介することはできないが、ぜひ一度このサイトで記者の報告を読んでいただきたい。全ての原爆文学を列挙することはできないが、最後に私が一つだけあげるとしたら、峠三吉の『原爆詩集』である。それは次のように始まる。 ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ この序文に続く作品全体を読めば、昭和20年(1945年)8月6日、そして9日、広島・長崎の空の真下で起きたことを知るだろう。79年前の8月を振り返り、まだ読んだことの無い人には、ぜひ一度、峠三吉の絶唱を、声に出して読むことをお勧めしたい。 【参考文献】 ★ロサンゼルス・タイムズ(ttps://www.latimes.com/local/obituaries/la-me-hisaye-yamamoto-20110213-story.html) ★ノーモア・ヒロシマ(https://hiroshimaforpeace.com/hiroshimakenshi-nomorehiroshima/)
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