《ブラジル》特別寄稿=投下79年目に読み返したい原爆文学=米国日系作家ヒサエ・ヤマモト=サンパウロ市在住 毛利律子
約40年後の正式謝罪と賠償
終戦後、収容所に送られた日系人は、その記憶を語ることは日本人の恥であり不名誉であると捉え、長く沈黙して語らなかった。 理由のひとつには、1950年代当時、共和党員マッカーシー旋風の反共産主義にもとづく政治活動としての「赤狩り」があらゆる社会で猛威をふるい、冷戦期でもあったことから、戦争時に日系人が受けた事実を語れる状況ではなかったのである。日系移民の家族史を問うようになったのは日系三世の時代になってからである。 それは、アメリカ国内の多様なマイノリティ集団が権利拡張を推進し始めた1960―70年代であった。三世たちは、強制収容によって失われた資産に対する補償運動を始め、当時のロナルド・レーガン大統領は、1988年に賠償法案に署名し、正式に謝罪。収容された日系人に対して一人当たり2万ドルの賠償金が1990年から支払われるようになった。
原爆小説『黒い雨』への関心
ヒサエは、1951年ごろから日本人作家の多くの原爆小説に強い関心を寄せ、それを暗に抗議する形で作品を発表、ジャーナルへの連続記事を投稿した。彼女が特に圧倒された原爆小説は『黒い雨』であった。 井伏鱒二の『黒い雨』(1965年出版)は、被爆者・重松静馬の『重松日記』と被爆軍医・岩竹博の『岩竹手記』を基にした作品であり、主人公の名前も重松静馬の名を基にしている。その中で「黒い粘り気のある、万年筆ぐらいな太さの棒のような雨」が空から降ってきた、と書いた。この小説を以て、「黒い雨」という言葉が世に知られるようになるのである。国が「黒い雨降雨地域」を含めた「原爆症」を認定したのは、戦後60年経過してからであった。 「黒い雨」とは何か。それは何時、どのような状況で降ったのか。 人類史上初めて使用された原子爆弾の火災嵐によって約3千~4千度の熱線に見舞われた市街地は、爆風と放射線とともに、その地域のほとんどの人々が即死した。そして30分後には黒い雨が降り始めた。 それは高温の火の玉が急激に膨張し、それに吸い込まれるように地上の土や水分が上昇しキノコ雲を形作る。地上を焼き尽くす灼熱によって上昇気流はさらに勢いづき巨大な積乱雲を作り出した。やがて、その雲は風下に流され、雨を降らせた。それこそ「史上空前の人工の黒い雨」であった。 それは大量の放射性物質を含む。高温の硝煙(火薬の発火によって生じる煙)によって巻き上げられた粉塵が混じっているため、黒い雨となって降り注ぐ。炎から逃れる人々の上に黒い粘り気のある雨が降る。人々はその雨に打たれながら、乾いたノドを潤すため黒い雨水を飲んだのである。
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