伊那谷楽園紀行(9)ざざ虫を瓶詰めで売る「なんでもアリ」の街
ぼくが「アジール」という言葉を伊那谷に当てはめることに違和感を持ったのは、ほかにも理由があった。この言葉には「駆け込み寺」だとか「来る者は拒まず。去る者は追わず」の意志を感じたからだ。 でも、伊那谷は、そんな閉じた土地だろうか。伊那谷を訪れ歩く度に、閉鎖的な田舎とは真逆の感覚を味わう。単なる開放感を超えた進取の気性が、ここにはあると思えてならない。
昨年の12月に伊那市を訪れた目的の一つに、文化施設である伊那市創造館で開催されている「大昆蟲(こんちゅう)食博」を見学したいということがあった。 ローメンと並び、伊那谷の食文化として、まず挙げられるのが昆虫食である。中でも、ほぼ伊那谷でしか食べられないのが「ざざ虫」だ。「ざざ虫」は固有の虫の名前ではない。トビケラ、カワゲラ、ヘビトンボの幼虫などといった川の中に棲んでいる虫を総称して「ざざ虫」と呼んでいる。 伊那谷の「ざざ虫」だけでなく、信州では昆虫食があちこちにみられる。蜂の子やイナゴは、松本市のスーパーでも売られている定番商品だ。そうした食材としての昆虫に共通しているのは、存外に高級なことである。「ざざ虫」は、佃煮にして食べるのが一般的だが、伊那市内の飲食店で、これを注文すると小鉢に僅かに入っているだけで600円も700円もする。 「今も続いているというのは、儲かってるってことだから」 伊那市役所に勤務する、牧田豊は笑いながら教えてくれた。56歳の牧田は、大学時代の4年間を東京で過ごして、再び伊那谷に戻ってきた。 以来、伊那市役所に奉職し様々な部署を経験した。牧田が人と違ったのは、なにごとにも凝り性だったこと。自転車やスキーなど様々なスポーツに時間を割くかと思えば「これはなんだろう」と思った文物を、納得するまで調べる。いわば地域のことならば、なんでも知っている「物知り」である。
その中でも、牧田が特に熱心に取り組んできたのが「ざざ虫」のことであった。地元紙で「ざざ虫」の話題が取り上げられると、ほぼ間違いなく「ざざ虫博士」である牧田のコメントが挿入される。 伊那谷に昆虫食文化が根付いた理由。たいていの人は、山間部で食べる物が少なかったから仕方なく食べていたものが、現代になっても続いているように考える。でも、そんなネガティブな理由で「ざざ虫」は、続いているのではない。 「昭和30年代には<虫を獲ってクルマを買った>なんて話もあった。今も、一応は儲かってる」 牧田の解説は、初めて聞くことばかりだった。戦前まで「ざざ虫」のような昆虫を、食材として用いる習慣は、信州各地はもちろん全国的に存在していた。 時代の変遷と共に、物流は円滑になり食文化は変わった。今では伊那谷でも新鮮な日本海産や太平洋産の刺身がスーパーで売られている時代だ。 それでも、信州で伊那谷だけには「ざざ虫」を食べる文化が続いているのは、なぜなのだろうか。その理由の一つが、大正時代に創業し2011年まで営業を続けていた「かねまん」という店の存在だ。 店頭で売られている「ざざ虫」は、佃煮にした上で瓶詰めにされている。それを始めたのが、この店だったという。当初は土産物として販売されていたが、いつしか「珍味だ」と評判になり東京の料亭からも引き合いが来るようになった。これをきっかけに、伊那谷の「ざざ虫」は伝統的な日常の食べ物から産業へと転換したという。 この瓶詰めは、中身も工夫されていた。今、店頭で売られている佃煮を買い求めると、中に入っているのは人差し指の爪くらいの大きさのエビのような虫である。虫の種類でいえば、トビケラがもっとも多い。これも珍味として受け入れられるための試行錯誤の結果だ。 「本当に美味しいのは、孫太郎虫(ヘビトンボの幼虫)。なにしろ、小指くらいのサイズがあるので、しっかりと食べている感じを味わえる。ただ、そんな大きさのためか佃煮にするとグロいので売られてない」 天竜川で「ざざ虫漁」が行われるのは、毎年12月頃から。漁師は河原の石を集めて、鉄製のかんじきで芋を洗うように踏む。そうすると、石についていた虫が流され、下流に置いてある網の中へと集まっていく。その漁の風景は見るからに寒そうだ。でも、そんな伝統が現代にも続いているのには、ちゃんと理由があった。 ある人に聞いたところ、もっと生々しいことも教えてくれた。 「テレビや新聞で取材される漁師は、いつも同じ人。自家消費のぶんしか獲らない人だけ。儲けている人は絶対に出ない。税務署がうるさいから……」 伊那市でもほかの自治体と同じように地域の歴史を記した『伊那市史』が刊行されている。けれども、そうした肝になるであろうことは、なに一つ記されていない。そのことを、牧田に告げると苦笑された。 「品行方正な人が書いているからね」 また、伊那谷への興味が増した。