伊那谷楽園紀行(9)ざざ虫を瓶詰めで売る「なんでもアリ」の街
上伊那の中心、伊那市。街の中心に位置する鉄道駅の名前は伊那市駅。バスターミナルには、日中は1時間に11本、東京からバスがやってくる。 あたかも、伊那谷の中心のような顔をしている街。けれども、街の歴史は極めて浅い。今は合併した旧高遠町は、江戸時代は保科家・鳥居家・内藤家と続いた高遠藩の城下町。では、現在の伊那市街地はといえば、なにもなかった。飯田城下から塩尻へと向かう伊那街道は天竜川の洪水を避けるように、河岸段丘の上、土地の高いところを走っていた。 そこに設けられた伊那部宿は、西へ向かうと中山道。東に向かうと甲州街道へと至る交通の要衝。江戸時代も元禄年間に入ると、北へ南へと人や物資の往来は増加した。これを見て、近隣の農民が自然と副業として始めたのが「中馬」。荷主と直接契約して、約束の場所まで、馬に載せて荷物を運ぶ商売。 それまでの「伝馬」はリレー方式だったため、破損の危険もあったし責任の所在も曖昧。対して「中馬」は信頼性も高かった。南北から物資が行き来するわけだから、沿道の諸藩も締め付けは緩やか。漂泊する者が流れてくるだけではない、豊かに物資と文化が行き来する伊那谷の姿がここにはあった。 現在も、伊那谷で馬肉が食されるのは、運搬に馬が用いられていたことに由来するとも、いわれている。 そんな江戸時代が終わり、明治に入り生まれたのが現在の伊那の市街地だ。天竜川に沿った土地は、洪水の危険もあった土地。人の住むところといえば、僅かに寒村がある程度。そこに街ができたのは、まったくの偶然だった。 明治になり、郡役所が置かれたのが現在の伊那市山寺にある常円寺。そこから行政区画の試行錯誤が続き1879年に上伊那郡が設置される。 そうすると、ちょうど中心となるのが、ここだった。当時の風潮は、まず旧弊を改めること。その雰囲気に押されたのか、城下町でもなく、しがらみの少ないこの土地が新たな地域の中心地として定められた。 「ちょうど、アメリカでは西部開拓時代。それと同じ時期に、なんでもありの街ができた」 新しくできた街には、飯田や松本、上田といった古い街から、新たな商売を目論む人が押し寄せた。そして、大正になると鉄道も開通した。 しがらみに囚われることのない新しい街が、中心地となった。それが、現代の伊那谷の魅力へと繋がっているのか……。