交換日記で日本語が上達、NHKドラマ「デフ・ヴォイス」で注目されたろう俳優・那須英彰さんの軌跡(前編)
交換日記が日本語上達のきっかけに
ーー日本語はどのように上達したのでしょうか。 実は、私は小学校から国語が苦手でした。例えば「怒られた」という単語の意味が理解できませんでした。「怒る」はわかりますが、「られる」の部分が理解できなかったのです。 実は、日本語が上達したのは交換日記のおかげなのです。 小学4年生の時、私はある聴者の美人な女子高生が好きになりました。ろう学校の高等部にいたリーゼントの先輩が、山形手話で彼女のことを「美人だね」と言ったからです。私も同じように感じていました。先輩に「アタックしろよ」と命じられましたが、最初は「無理!」と思いました。しかし、「お前は心が小さい。弱すぎる」と言われ、むきになって「わかりました。やります」と答えました。 それで私は彼女に声をかけ「ぼくはあなたの友だちになりたいと思います」と不明瞭な声で言いました。最初は会話が成り立たず、彼女はバスの窓に息を吹きかけて筆談をしようとしました。でも、窓を使った筆談を続けるのはやめ、「交換日記をしませんか」と提案されたのです。 スタートは彼女からでした。私は日記を受け取り、早速返事を書くことにしました。日本語が下手だったので妹に手伝ってもらおうと考えました。私が言いたいことを手話と音声で伝え、妹がそれを見て日本語で書きます。妹が書いた日本語を私が交換日記に書き写すという形です。妹との間の秘密でしたが、その後、妹とした喧嘩が発端で交換日記をやっていることが母にばれてしまい、「これからは自分でやりなさい」と言われました。 ともかく、交換日記は順調に続きました。彼女が赤ペンで私の日本語を直してくれ、そこから日本語の勉強を本格的に始めたのです。読書や、様々な言葉の使い方のアドバイスをもらううちに日本語が上達していきました。聾学校の国語の先生は、私の日本語が上達しているのを不思議に思っていたそうです。
山形の手話から全国の手話へ
ーーろう学校での口話主義は、あなたにどのような影響を及ぼしましたか。 山形聾学校は口話主義(*4)であったため、授業の内容が遅れがちでした。私が中学2年生の時、小学校6年生の教科書を使っていました。英語だけは中学1年生から始めました。そのため、国語や数学は小学校6年生の教科書を使うことになりました。 先生が私の学力を評価してくれたためか、筑波大学附属聾学校(現・筑波大学附属聴覚特別支援学校)へ行くことを勧められました。すごく嬉しかったです。というのもテレビで刑事ドラマ「太陽にほえろ」の最初に出る映像シーンで新宿の高層ビル群が出ているのを見て前から行きたかったからです。東京に行けると思うとぜひ、通いたいと思いました。 ただし、筑波大学附属聾学校に入学するには入試があります。親と相談して山形大学の学生に家庭教師として来てもらい、簡単な手話でのやり取りをしながら試験勉強を始めました。そのかいあって無事合格することができました。 入学してわかったのは同級生の手話が、私が使ってきた山形の手話と違うことでした。全国各地の聾学校から入って来た同級生はそれぞれ、その地方の手話を使っていました。それだけでなく、日本語対応手話(手指日本語)使用の同級生もいて、私は手指日本語が全く分からなかったため、最初は苦労しました。しかし、学校生活に慣れるにつれ、自然とグループが一つにまとまるようになり、とてもいい雰囲気の学年になっていきました。 恩師であるろう者の伊藤政雄先生からは、日本手話をそのまま使い続けるようにアドバイスされました。私はそのアドバイスに従い、ブレずに日本手話でやってきました。伊藤先生の真似をして周囲を笑わせました。 当時、手指日本語で話していた生徒学生たちの中には、社会人になってから日本手話を使うようになった人もいました。 (*4) 口話主義とは、ろう者や難聴者に対する教育方法の一つで、口話(口で話す言葉)と唇読みを重視し、手話の使用を制限または禁止する教育方針です。しかし、ろう者や難聴者にとって、口話と唇読みは自然なコミュニケーション手段ではありません。このため、教師の言葉を理解し、自分の考えを表現するのが難しくなります。これにより、学習の効率が下がり、遅れが生じることになります。