『ラヴィット』大反響の“通訳さん”を直撃!実はスゴい人だった「韓国でも話題になって…」
子どもの頃は韓国語がぜんぜん話せなかった
――めちゃくちゃマルチじゃないですか!みょんふぁさんがどういう人なのか、さらに謎が深まってしまいそう……。ここは一つ、みょんふぁさんの生い立ちからひもとかせてもらっていいですか? みょんふぁ:えっと、じゃあ、子どもの頃のことから順番にお話すればいいですか?私は大阪市生野(いくの)区の出身で、在日韓国籍三世です。 小学生の時は民族学校の金剛小学校に通っていたのですが、入学した年に担任の先生が韓国舞踏団を創立するとのことで、母親と一緒に立ち上げメンバーとして参加したんです。そこで「舞台が楽しい」という感覚を知ったことが、演技に関わる最初のきっかけになりました。 ――なるほど。それで韓国語が話せるわけですか。 みょんふぁ:いえ、その時点ではぜんぜん韓国語は話せなかったんですよ。学校でも韓国語を使わなかったんで読み書きがちょっとできる程度。中学からは日本の学校に通い始めたので、韓国語ができるようになるのはもっと先のことです。 ――早とちりでした(笑)。中学校ではどんな学生生活をしていたんですか? みょんふぁ:演劇部に入って舞台に立つことは続けていました。その頃に将来的には大阪芸術大学の演劇学科に進学したいと考えるようになったんです。 でも、親からは絶対反対されるだろうなと思ってました。うちの父親は「演劇なんて男と女の雑魚寝(ざこね)やろ!」なんて豪語しちゃうような人だったので(笑)
韓国語を身に着けたのは大人になってから
――名言っぽくも聞こえる不思議(笑)。親御さんのことはどうやって説得したのでしょう。 みょんふぁ:高校一年生からピアノを始めて、演劇ではなく音楽学科に進学しました。演劇より音楽の方が心証が良かったみたいで(笑)。 とにかく入学して、後は阪芸(大阪芸大の略称)の中で演劇の人に出会ってそっちの道に進もうと目論(もくろ)んだんです。 なぜか劇団☆新感線(旗揚げメンバーは大阪芸大生が中心)ではなくて、劇団そとばこまちのオーディションを受けて入団したのですが、大学の卒業が危うくなったので一年半で辞めることになってしまいました。 ――そこからしばらくは演劇から遠ざかってしまったのでしょうか。 みょんふぁ:そうですね。そのまま演劇界には戻らずに24歳の時に結婚して兵庫県に引っ越したのですが、そのタイミングで『FMわぃわぃ』という多文化・多言語コミュニティ放送局の立ち上げに携わることになったのです。 そこで在日の方のための生活情報番組のパーソナリティを担当することになり、韓国語を少しずつ勉強し始めました。 ――仕事を通じて韓国語を身に着けたんですね。それ以降は主にどういった仕事を? みょんふぁ:主婦をやりながら司会業を中心に活動していました。でも、その三年後には離婚して、ニュージーランドに一年ほど渡ることになったんです。