広告・お笑い・プロレスに共通する「穏やかで洗練された洗脳」
広告会社が積極的に「ご提案」という形で政治に関わっていくならば、そこではどうしても広告の中の「洗脳」という成分がクローズアップされる。広告を「洗練された穏やかな洗脳技術」と定義することも可能であろう。過激な洗脳で人々を搾取すれば、それは旧統一教会のようなカルトとなるが、人々が納得できる範囲内で穏やかに同じ技術を使えば、それは社会にとって有用な広告という産業になる、というわけだ。 ●ファシズムは宣伝と共に そもそも広告という仕事は、歴史的に政治と密接な関係を持っている。民主主義に基づく普通選挙には、どうしても政策や公約とは別の「候補者が美男美女か」「どんな着こなしをしているか」「どんな話し方をするか」「人前でどのように振る舞うか」という好感度競争の要素が入ってくる。すると、「政治家という商品」を大衆に売り込むための技術、つまり広告が大きな意味を持ってくる。 端的な例がファシズムだ。 ファシズムとは、国民の生命、財産の一切合切を一つの国家目的のために動員するという政治思想だ。一つの国家目的とは、「総力戦での勝利」である。 第1次世界大戦において、戦争は国家が全リソースをぶつけ合う総力戦となったことが明確になった。総力戦の勝敗は、非常に単純な形で決まる。経済力で勝る国が必ず勝つ――。 この事実を前に、経済力で劣る国は恐怖した。経済力で勝る国に戦争を仕掛けられたら、必ず負けてしまうではないか。 そこに現れた“希望の思想”がファシズムだった。経済力で劣るなら、国家リソースのすべてを戦争に動員すればいい。そうすればたとえ経済力で勝っていても、そのすべてを戦争に動員できない国に総力戦で勝つことができる。 しかし、国民に生命から財産に至るまでのすべてを国家目的に差し出せといってもそう簡単に差し出すはずもない。それは個の生存を第一とする、生物としての本能に反する。 だからファシズムは必然的に広告と結びついた。生命・財産のすべてを国家に差し出すことが「魅力的な行為」であると国民に思わせなければ、ファシズムは現実の政治体制とはなれなかったのだ。 以前取り上げた、レニ・リーフェンシュタール監督の「意志の勝利」はナチスを魅力的と思わせる宣伝映画でもあった(「パリオリンピックを一切見なかった理由」)。 ナチス・ドイツの軍服は格好がよく、今も愛好家が多数いる。が、それは単なる格好つけではなかった。軍服が格好よく魅力的でなくては、ファシズム体制は成立しなかったのである。 ●政治と広告の蜜月 日本には、第2次世界大戦の前、新聞聯合社と日本電報通信社という2つの通信社がニュースの配信を行っていた。このうち日本電報通信社は、創設者の光永星郎が1901年に相次いで設立した、広告会社の日本広告と通信社の電報通信社を1907年に合併させて成立した会社で、通信部門と広告部門を持っていた。 1936年(昭和11年)に新聞聯合社と日本電報通信社が合併して同盟通信社という単独の通信社となる。情報の流通を一本化して国家の統制下に置くためである。 この時日本電報通信社の広告部門は分離されて、日本電報通信社の名前のままで広告専業の会社となった。同社は、1945年の敗戦に至るまで、様々な形で日本を戦時体制に作り替えるための広告を手がけた。敗戦後も同社は広告専業で生き延び、やがて日本を代表する広告会社として成長していく――現在の電通である。 現在、自由民主党は電通の大口顧客である。ネットを調べると共産党の機関紙「しんぶん赤旗」が自民党から電通および関連会社への支出を調べた記事が出てくる。それによると2000年以降、衆議院ないしは参議院選挙があった年に支出が大きく伸びており、特に衆院選のあった年は15億円から20億円が支払われている、と報じられている。