『君たちはどう生きるか』でさらなる高みへ―巨匠・宮崎駿が示すアニメーションの可能性
豊かな「手描き」の世界
83歳の巨匠による最後の長編になるかもしれないとなれば、おのずと注目を集める。また、海外での大ヒットは、動画配信の世界的な広がりも背景にある。この10年ほど、配信を通じて日本アニメのファン層が広がり、劇場版が各国で上映される機会も増えている。2020年には、北米の大手配信サイトMax (旧HBO Max)がジブリ作品の配信を開始、ネットフリックスの世界配信も始まり、海外でのさらなる認知が広がっていた。 だが、それだけではない。『君たちはどう生きるか』には、いまなお表現への挑戦を続け、世界を引き付ける宮崎作品の魅力があふれている。 特に海外の観客を驚かせたのが、「手描き」アニメーションの素晴らしさだ。空に羽ばたくカラフルなインコたち、主人公の体にはい上がるカエルの群れ、崩れゆく塔の中の世界などは、手描きならではの生々しさがある。 手描きアニメにはアニメーターの卓越した技術が必要で、手間と時間もかかる。制作過程で描かれた絵のほとんどが、宮崎をはじめとする少数精鋭のアニメーターや美術スタッフが紙に鉛筆と絵具で描いたという。 海外の長編アニメーションでは、システマティックな3DCG作品が主流となり、たとえ「手描きアニメーション」と呼ばれていても、作画や美術にはデジタル機材が使われることが多く、CGアニメとの境界が曖昧になっている。手描き工程の多くは失われてしまったのだ。 その中で、スタジオジブリが昔ながらの工程を継承していること自体が驚きとして受け止められた。実際、2001年に始まった米国アカデミー賞の長編アニメーション賞で、最優秀賞を獲得した手描きアニメーションは、『千と千尋の神隠し』(03年受賞)と『君たちはどう生きるか』の2作品のみで、主流はピクサーに代表されるCGアニメーションだった。
「隙間」として残される謎
もうひとつ、宮崎作品の大きな魅力は、一般的な子ども・家族向け映画のフォーマットから自由なことだ。ディズニーやピクサーなどの長編作品は、あるべき親の姿、子どもの姿を描き、どこか教訓的だ。望ましい世界が想定されており、個々の作品は優れていても、全体的な傾向として、どこか深みがない印象を受ける。 宮崎駿は、そうした一面的な教育的価値観とは距離を置く。また、善悪の明確な対立は設定しない。『君たちはどう生きるか』の主人公・眞人(まひと)は故意に自分の頭に石を打ち付け、その怪我(けが)を同級生の仕業と思わせる。そして、ある場面で「自分の中には悪意がある」と告げる。誰にでも内なる「悪」はある。世界には「悪意」があふれている。それにどう向き合うのか。観客はさまざまな思いを巡らせるだろう。そこに宮崎作品の深さがある。 創作の際は、ビジュアルのイメージを描いてそこから物語を発展させていくスタイルだという。『火垂るの墓』(1988年)や『かぐや姫の物語』(2013年)などの傑作を生んだ高畑勲が、まず論理的に物語を組み立てるのとは対照的だ。そうした自由さが予想のつかない展開を生み出す。 初期作品では、エンターテインメント性がより重視されていた。90年代、『紅の豚』(1992年)以降、「分かりやすさ」から解放され、物語に「謎」が残されるようになる。同作では、主人公のポルコが、どうして豚の姿になったのかについては語らない。『もののけ姫』(97年)では、物語の発端となるアシタカが受けた呪いが最後に解かれたのか明確に描かれない。『ハウルの動く城』(2004年)では、魔法使いのハウルが戦う隣国の事情はほとんど語られない。 『君たちはどう生きるか』でも、塔の中の異世界がどのように維持されていたのか、アオサギは結局どんな存在だったのか説明されない。宮崎駿の物語の特質は、こうした「隙間」にある。 多くの人が映画の物語に合理性を求めるため、通常のフォーマットでは、物語の中で起きる事象は説明され、伏線は回収される。しかし宮崎作品では、「隙間」の判断を観客に委ね、考えさせる。観客も “お約束事” を期待していない。むしろ監督の自由気ままな創作世界を求めているのだ。