大学中退、就職もしないけど、自分ができることを頑張ればいい。刺しゅう作家・神尾茉利さんが時間をかけて見つけた一番の喜び
引き続き、神尾茉利さんのインタビューをお届けします。 取材後の撮影は、お子さんと訪れたり一人で散歩に来たりと、よく足を運ぶ公園です。「街が好きだから子育ても東京でしたいと思いました。予備校時代に感じたのは、東京にいると美術館やギャラリーがそばにあって気軽に行けるんですよね。そんな環境も私には魅力です」。 後半では、神尾さんが衣装デザイナーを目指して上京し、刺しゅう作家として活動を始めるまでの経緯をお聞きします。目的を見失ってしまった大学時代、作品作りから気付かされた自分の役割と「誰かを頼る」ことの大切さ。作品は社会とのつながりを生み、その存在によって「より自分らしく生きられるようになった」と言います。(この記事は全2回の第2回目です。第1回目を読む)
小学校中学年の頃、フエルトにビーズや刺しゅうを施して作ったマスコットが人生初手芸作品
神尾さんは兵庫県で、会社員の父と専業主婦の母、兄の4人家族のもと育ちます。小さい時は、絵を描いたり工作が好きな手先の器用な子でした。学校の集団生活がずっと苦手だったと振り返ります。 「決められた時間で何かをやらないといけない、自分で決められないというのが好きではありませんでした。今でも同じ時間に何かをやるルーティンが苦手なんです。言葉で説明するのも得意ではなかったのですが、親はそんな私のことを理解してくれていました」 初めて手芸に挑戦したのは、小学校中学年の頃。当時流行っていたという、フエルトにビーズや刺しゅうを施し、マスコットを作ったのが最初でした。 「家庭科は苦手だったんですよ。母と祖母が洋裁が得意だったので身近ではあったものの、積極的に自分で作ってはいなかったと思います。初めて大きなものを縫ったのは小学6年生の時。母に教えてもらいながら、友達と一緒にスカートを作りました。布をただ筒状に縫って、ゴムを通した簡単なものでした。卒業間近で最後の登校日に一緒に履こうね、ってお揃いにしたんです。その頃は洋服が好きでしたね」