戦国武将の必需品だった...南高梅が変えた「日本の梅干し文化」
「南高梅」で花開く、和歌山の梅の食文化
戦乱の時代が終わった江戸時代には、梅干しは庶民の食の支えとなる。紫蘇を使った赤い梅干しもこの時代から製造された。こうした需要を踏まえて、本格的な生産が紀州和歌山で始まることになるのである。 元和5年(1619)、徳川家康の10男・徳川頼宣が紀伊和歌山城に入ると、その附家老であった安藤直次は、同国の田辺に所領を与えられる。しかし、山地が多く、田畑を広げにくいこの地域での領地経営は難しく、民衆の暮らしも楽なものではなかった。 殖産を図った直次は、南部(みなべ・現在のみなべ町)の山の斜面や荒れ地に梅の木を植えさせる。やがて梅林は広がって多くの実を産するようになり、江戸時代中頃には樽詰めにして江戸に出荷されて好評を博す。江戸時代後期刊行の『紀伊国名所図会』では、梅林の景観が紹介されるほどとなり、梅の名産地としての基礎がここに築かれたのである。 近代に入ると、和歌山県での梅栽培はさらに急激に増加する。日清・日露戦争などでの軍用食の需要が高まったからである。そして、増産とともに進められたのが、優れた品種の選定であった。 江戸時代から和歌山で栽培されてきた梅は「藪(やぶ)梅」と呼ばれ、果実の直径が2、3センチ程度の小さなものであった。しかし、明治時代に入って上南部村(現在のみなべ町)の高田貞楠(さだぐす)氏が自身の梅林にひときわ大きな果実をつける木を発見。これを母樹として増殖が進められた。 時が過ぎて戦後の昭和25年(1950)、「梅優良母樹選定会」が発足。5年にわたる収集と研究の結果、高田氏の梅の木が最優良品種に認定される。この調査研究に尽力したのが、地元の南部高校教諭の竹中勝太郎(かつたろう)氏と生徒たちであったことから、高田氏の名とあわせてこの梅を「南高梅」と名付けたのであった。 現在の和歌山での梅栽培の主役となった南高梅の特徴は、なにより実が大きいこと。さらに皮が薄く種が小さいので、果肉が厚くて柔らかい。この特徴を製品に生かして人気を集める、梅干し製造販売の会社「勝僖梅」を訪ねて、梅干しの現状について話を聞いた。 「以前は2Lサイズ(直径3.7~4.1センチ未満)の実をもとにした梅干しがもっとも市場に出回っていて、一番おいしいといわれてきました。そういうなかで、当社では4Lサイズ(直径4.5~4.9センチ未満)の果実を使って、お客様から、大きな南高梅の梅干しこそ、ジューシーでおいしいと評価していただくことを目標にしてきました。 梅干しの加工は実が大きいほど、潰れやすくて難しいのですが、慎重に取り組めば可能です。むしろ難しいのは、それをどうすれば、相応の価格で購入していただけるのか。それが当初からの課題だったと聞いています」と、梅干しに託された思いを教えてくれたのは、営業部の西川智由紀さん。製造面での苦心も語る。 「昔ながらの梅干しの場合、塩分は20パーセントから25パーセントぐらい。その塩分のままで4Lサイズの梅干しを食べるとすると、塩分が多過ぎです。塩分を控えることで、安心して食べていただけるように努めてきました。とはいえ、塩分を控えるだけでは保存の面で劣ってきます。そこで窒素充填などの独自の工夫も取り入れて、賞味期限を延ばしてきたところです」。 実は創業から38年目という勝僖梅。梅干しの製造を始めて何代目という事業所も少なくない和歌山では、梅干し製造の企業としては新進である。そのなかで家庭用というより、贈答用の高級品を追求してきたという。蜂蜜を使うなどした、主力商品である甘い梅干しで需要の掘り起こしを図るとともに、梅干しや梅の実を用いた加工品にも事業を拡げる。 「2年前からブランデー梅酒、昨年の秋からは梅干しを一粒まるごと入れたアイスクリームの販売を始めました。梅酒のほうは、香港の代理店を通じて海外でも販売を進める予定です。こういうところから和歌山の梅への関心を拡げ、梅干しの需要につなげていければとも考えています」。 平成27年(2015)、400年の歴史を持つ和歌山の梅栽培は「みなべ・田辺の梅システム」として、国連食糧農業機関によって世界農業遺産に認定されている。そのシステムを未来に生かすための、さらなるアイデアを生む土壌もまた、ここ和歌山に育っているのである。
兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)