戦国武将の必需品だった...南高梅が変えた「日本の梅干し文化」
古代より薬効で注目されてきた梅の実
梅の木は中国中部が原産とされ、日本には弥生時代に渡来したとも、遣唐使が持ち込んだともいい、もともと国内にも自生していたとする説もあって定かではない。 注目されるのは、2000年ほど前に成立したとみられる中国最古の薬学書『神農本草経』に、梅の実の記載があることである。「気を下し、発熱による胸の苦しさを除く」などの薬効が述べられている。 青梅を黒く燻製した「烏梅(うばい)」は、風邪や胃腸の薬として現在も用いられる漢方薬だが、飛鳥時代以降、日本に伝来したといい、梅の実の薬効は日本でも早くから知られていたとみられる。 京都東山の名刹、六波羅蜜寺では正月三が日、若水でいれた煎茶に、結び昆布と小粒梅干しを入れた「皇服茶(おうぶくちゃ)」が振る舞われる。 平安時代中期の天暦5年(951)、空也上人が寺の起源となった道場をこの地に開いた当時、京に疫病が蔓延。上人は観音像を乗せた車を引きながら念仏を唱えて歩き、この茶を病人に与えて多くの命を救ったと伝えられる。同時代の帝、村上天皇もこの梅干し茶を服して病から回復。以来、元日に服すことを吉例としたといい、皇服茶の名と行事はこれにちなむ。 伝承とはいえ、古くは薬に用いられた茶とともに、梅干しが同じように扱われたことの証左であろう。永観2年(984)に朝廷に献上された、丹波康頼が撰した日本現存最古の医学書『医心方』にも梅干しが取り上げられ、「梅は三毒を断つ」として広い効用が説かれている。 鎌倉時代以降、武士の世へと時代が転換すると、梅干しは滋養がある食品として武家の食台に載るようになる。また、室町時代、醤油が普及する以前には、酒に梅干しを入れて煮詰めた「煎り酒」が考案されて刺身などに添えられた。調味料としての梅干しの活用の先駆といえよう。 そして、戦国時代に入ると、梅干しは保存が利き、野戦にも携帯できる兵糧として、武将にとって必需のものとなった。