戦国武将の必需品だった...南高梅が変えた「日本の梅干し文化」
あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず!「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。 【画像多数】徳川時代に整備された和歌山城中門の石垣。時代を象徴する「切り込み接ぎ」の技術 今回は、和歌山県の「梅干し」。日本人なら誰もが味わいを知るこの古来の食品は、素材の梅の実とともに、和歌山県が一大産地である。しかし、近年の食に対する志向の移り変わりを受けて、そのあり様にも大きな変化が生まれているという。梅干しの歴史と現状について和歌山市の名店に尋ねた。 【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】 昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。 【(編者)歴史街道推進協議会】 「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体験し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。
日本文化のなかで息づいてきた梅
天平2年(730)正月13日、九州大宰府に長官として赴任していた大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅にて宴会が催され、このときに集った人々の32首の和歌が『万葉集』に収められている。 その序にある「初春令月(初春のよき月にして)気淑風和(気よく風やわらぐ)」の言葉から採られたのが、現在の元号「令和」である。このときの歌の主題こそ、庭に咲く梅花であった。 「わが園(その)に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも」(大伴旅人/『万葉集』巻5・822)。 『万葉集』には、ほかにも梅を取り上げた和歌が多くあり、可憐な花と馥郁(ふくいく)とした香りが、いにしえより愛されてきたことがわかる。そして、その果実もまた、古くから利用されてきた。ただし、その利用のされ方には、時代ごとに変遷があった。