開催迫るG20大阪サミット、G7とは何が違う? 坂東太郎のよく分かる時事用語
G20の誕生
ハイリスク・ハイリターンの金融商品を運用して高収益を上げていた米投資銀行「リーマン・ブラザーズ」が経営難に陥り、米政府に救済されることなく経営破たんしたのが2008年9月15日。同日のニューヨーク市場で500ドル超の大幅下落を記録したのを機に、世界同時株安が始まります。 事態を収束させるための金融安定化法案を米下院が否決した翌日のニューヨーク市場は、史上最大の下げ幅を記録しました。サブマーケット的な立ち位置の東京市場も全面安となり、ヨーロッパ主要国の市場も炎上しました。市場に「(リーマンの)次の敗者はどこだ」という負の連想ゲームが急拡大し、金融機関の株が軒並み買いたたかれ、金融機関同士のドル取引が劇的に縮小したのです。このままでは1929年の世界恐慌以来の大恐慌は不可避、との悲観論も一挙に広まりました。 震源地のアメリカはもとより、日欧も火の手が回って従来のG7では対処できそうにない、とみたイギリスのブラウン首相やフランスのサルコジ大統領らがEUとして国際協調の枠組みを推進、構築する「金融サミット」の開催をブッシュ米大統領に持ちかけたのをきっかけに決まったのが初のG20首脳会議。当時は「金融サミット」の名が多く用いられました。 08年11月14、15日に米ワシントンで開かれた初会合では、中国やインドといった新興国が参加した意義や国際協調体制の大切さを世界に再認識させました。 中でも中国の存在感は印象的でした。同月に4兆元(当時の価値で約57兆円)の景気刺激策を打ち出すなど日米欧がマイナス成長に陥るなか8%以上の経済成長を成し遂げました。09年9月のロンドン会合でG20首脳会議の定例開催が決まり今に至っているのです。 「グローバル危機にはグローバル結束」を強く印象づけ、新たな協調の枠組みが希望のあかりをともしたG20体制はこうして誕生しました。
トランプ米大統領就任で…
しかし危機を金融緩和で乗り切ろうとするアメリカと資本流入を不安視する中国など新興国の対立が、早くも10年あたりから浮上。同年頃から顕在化したギリシャを発端とする欧州債務危機への対応でも、G20は具体的な支援策を打ち出せませんでした。「輸出産業を潤すために金融を緩和して自国の通貨を安く誘導する操作をしているのではないか」という疑心暗鬼もたびたび浮上して対立の原因となってきました。 13年、一息ついたアメリカが金融緩和を縮小する、という観測から新興国が恐れていた資金の流出が始まり、G20のうちブラジル、インド、南アフリカ、インドネシア、トルコら主に資源輸出に支えられてきた新興国経済の雲行きが怪しくなります。 とまあ、いくらかギクシャクしたものの、「国際協調のシンボル」、「世界経済を議論する中心的な会合」としてのG20の役割は定着しつつありました。戦前の世界恐慌がブロック経済に走ったのに対して、リーマン後のG20体制は国際協調を基本に乗りこえてきたといえるでしょう。 ところが、17年、トランプ米大統領が就任して、状況は暗転します。 アメリカ・ファーストを標榜するトランプ氏は、しばしば国際協調の対極に位置する保護貿易的政策を選択し、2国間での取引(ディール)を好む傾向があります。同年のG20首脳会議は「保護貿易主義と闘い続ける」としながらも「正当な貿易上の対抗措置の役割を認識する」との文言を加えることでトランプ政権に譲歩。18年は議長国アルゼンチンのマクリ大統領が「08年に我々が危機感を持って集まった時のように振る舞ってほしい。G20の精神は違いを尊重し、共通の利益に向けて行動を促すことだ」と訴えたにもかかわらず、遂に首脳宣言から「保護貿易主義と闘う」との文言すら消えてしまいました。