「何もない」がっかり観光地、だからこそ「世界遺産」になった驚きの理由 後世に平和と繁栄を残した「島原天草一揆」の地、長崎県・原城跡
約400年前、16歳だった天草四郎がキリシタン農民らを率いた日本史上最大の農民一揆「島原天草一揆」。彼らの最期の地になったのが、長崎県南島原市にある原城跡だ。世界遺産に登録された城跡だが、現在は何もない原っぱが広がるだけ。同じ世界遺産の姫路城をイメージして訪れるとあまりの落差に「がっかり観光地」の一つに挙げられてしまう。 キリシタンの信心具鋳型か発掘 「島原の乱」舞台跡の調査
実は原城跡には、天守閣も小さな櫓(やぐら)も「何もない」からこそ世界遺産になった特別な理由がある。原っぱが広がる原城跡で、ガイドの男性が観光客にお薦めするのは、四郎にまつわる伝説が実話ではないかと錯覚するとっておきの光景だった。(共同通信=下江祐成) ▽約3万人を皆殺し、キリシタンの妖術を恐れ徹底破壊 島原天草一揆は1637~38年にかけ、長崎と熊本で起こった。数年来の凶作や台風被害にも関わらず、島原領主が苛烈な拷問で重税を取り立てており、救世主と信じられた四郎の下に農民や武士が結集した。 原城跡に何もないのは特別な理由からだ。幕府軍約12万人は、約3万人の一揆勢が立てこもった原城を落とし、禁止されていたキリスト教を信仰していたとの理由で、老若男女を問わず皆殺しにした。 その後、堅固な城を二度と利用できないように焼け残った石垣さえも破壊して土で埋め、何もないただの丘にしたからだ。
発掘調査では、上半身と下半身が切断された人骨が多数見つかり、石垣の石が人骨の上に落とされていた。当時、キリシタンは妖術で復活するとの考えがあり、生き返らないように遺体も破壊したとみられている。 広島と長崎への原爆投下や1994年に起きたアフリカ・ルワンダでの大虐殺…。最近では、ウクライナや中東での戦争…。宗教や民族、政治体制を口実にして残虐行為に及ぶ人間の姿は、400年前と変わってはいない。 江戸時代。各地にいたキリシタンたちは原城の惨状を知り、村社会で普通に生活しつつ信仰を守る「潜伏キリシタン」となった。 幾世代もの時を経た2018年。「潜伏」という特殊な形態が、宗教史上極めて珍しいと認められ、原城を含めた「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連資産」が世界遺産に登録された。 ▽惨殺された農民が後世に残した〝平和と繁栄〟 拷問や重税に苦しめられた末に決起し、惨殺された農民たちは、後世に何を残せたのだろうか―。日本史の専門家に聞いてみた。