「何もない」がっかり観光地、だからこそ「世界遺産」になった驚きの理由 後世に平和と繁栄を残した「島原天草一揆」の地、長崎県・原城跡
早稲田大教育・総合科学学術院の大橋幸泰教授(近世民衆史)は、苛政を行った島原の領主・松倉勝家が江戸時代の大名としては唯一、切腹も許されず、斬首に処せられたことに着目している。 この経緯から、全国の領主と領民の間には、こんな暗黙のコンセンサスが共有された。 領主は、思いやりのある「仁政」を行い、飢饉の時は「御救い」という生活保護をしなければ、斬首刑になり得る。領民は、一揆は認められないが仁政を求める異議申し立ては許容される―ことだ。 以後、大量殺りくを招く衝突にはいたらず、社会の安定につながっていったという。 島原天草一揆の後、日本は社会の安定を背景に耕地面積が拡大し、人口が倍増した。長い歴史の視点で見れば、犠牲になった農民は、後世に平和と繁栄を残したとも言えそうだ。 ▽満月の夜に天草から原城へ開ける伝説の道 原城跡を訪れる人は、世界遺産に登録された2018年と比べ減っており、観光地としての展望が明るいとは言えない。地元の人は、訪れた観光客から「ほんと何もないとこね」と容赦のない言葉を何度も聞かされてきた。
しかも、世界遺産になり史跡保護の必要が出たため、広範囲が駐車禁止になってしまった。観光客の中には怒って帰ってしまう人もいるほどだ。 ガイドを務める内山哲利さん(76)は、商船の乗組員になるため広島の高等専門学校で勉強していた頃には、友だちから「四郎バカ」と呼ばれるほど四郎の自慢話ばかりしていた。 原城跡は何もない原っぱだが、若い頃と同様、内山さんには自慢できるものがある。四郎も眺めたであろう雲仙・普賢岳の絶景だ。雄大な稜線が、青空との境界が曖昧なほど美しい空色の有明海へとなだらかに下っていく。 さらに、とっておきの光景は満月の日の夜だという。 「月の光で海の上に道が開けるんです。南の天草から原城があるこちらへ向かってパーッとね」 四郎が歩いて海を渡ったとの伝説は、実話なのではないか―。気象条件に恵まれれば、そんな錯覚に陥る月の道を目にすることができる。