「吉本興業御曹司との許されぬ結婚」スキャンダルの真実、ブギの女王が未婚の母になったワケ
戦後の混乱期を一途に、毅然として生きた“ブギの女王”笠置シヅ子。吉本興業の御曹司である吉本頴右の子を身籠り引退を決意するも、残酷な運命が彼女を待ち受けていた。最愛の男との死別、そして不仲がささやかれた姑・吉本せいとの関係性……未婚の母となった笠置は戦後をどう生きたのか?※本稿は、砂古口早苗著『ブギの女王 笠置シヅ子: 心ズキズキワクワクああしんど』(現代書館)の一部を抜粋・編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ● 結婚を誓った相手は 吉本興業の御曹司だった 1947年1月、笠置シヅ子は荘村正栄宅から世田谷・松陰神社前に一軒家を借りて引っ越し、マネジャーの山内義富一家と住む。一方、吉本頴右の肺結核は次第に悪化していき、彼は西宮市の自宅へ戻って療養に専念することになる。 1月14日、笠置は東京駅で彼を見送ったが、これが頴右との今生の別れとなった。 妊娠5カ月の笠置は服部良一を始め周囲をハラハラさせながら、1月29日、笠置主演の日劇「ジャズカルメン」初日の幕が開いた。当時の雑誌には、笠置の「ハラボテのカルメン」という記事もあって驚く。実はこの「ジャズカルメン」で、笠置は引退するつもりだった。結婚を誓った頴右との約束だったのだ。 やがて出産が近づき、当時の芝区葦手町にあった桜井病院に入院していた笠置の下へ、5月19日午前10時20分、吉本頴右が急逝したとの知らせが入る。 当時は奔馬性結核と呼ばれていた“不治の病”が、24歳の命を奪った。彼の死は、2人の女性を悲しみと失意のどん底に突き落とした。来月早々に出産を控えた身重の婚約者と、最愛の一人息子に将来を託していた母、大阪の吉本興業社長・吉本せい(1889~1950)である。
兵庫県明石生まれの林せいが、大阪上町の荒物問屋・吉本吉兵衛(本名・吉次郎、通称・泰三)に嫁いだのは1910(明治43)年。家業そっちのけで寄席道楽に明け暮れていたという吉兵衛が、北区天満にあった寄席「第二文藝館」を買収して妻のせいとともに寄席経営に乗り出したのが1912年4月1日(現在の吉本興業創業日)。 2人は小寄席の端席を次々と買収し、「花と咲くカ月と翳るかすべてを賭けて」との思いから「花月」と名づけ、大正末には大阪だけで20余りの寄席を経営し、東京へも進出する。 経営手腕は吉兵衛よりせいのほうが上手だったようで、彼女は今日まで“伝説の女興行師”と語り継がれる。ちなみに1958年、山崎豊子が吉本せいをモデルに小説『花のれん』を書き、第39回直木賞を受賞している。翌年には東宝で映画化され、主演の淡島千影(吉兵衛役は森繁久弥)は大阪女の逞しさとせつなさを好演した。 ● やり手興行主の後継者と 女芸人との許されぬ結婚 せい夫婦は二男六女をもうけたが、長男以下5人の子どもが次々と夭逝した上に、次男(頴右)が生まれた翌年の1924年、吉兵衛が37歳の男盛りに急逝してしまう。せいは34歳の若さで未亡人になったのである。やがて昭和に入り、関西発祥の松竹と東宝が二大勢力となって興行が発展する中にせいは堂々と割って入り、業績を伸ばしていく。