「吉本興業御曹司との許されぬ結婚」スキャンダルの真実、ブギの女王が未婚の母になったワケ
6月7日、服部良一や、当時キネマ旬報にいた芸能ジャーナリストの旗一兵らが見舞いに来る。桜井病院の応接間で服部がピアノを弾いて、ヱイ子のお七夜の祝盃を上げる。 ● シングルマザーの道を選んだ 乳飲み子を抱えた“ブギの女王” 「ただ残念なことはヱイ子を私生児にしたことです」と、笠置は手記に書いている。 自分は望まれない結婚で生まれ、ヱイ子と同じように父が病死して父の面影をまったく知らない。だが、幸い養父母が現れて育てられた。 「私には養父があります。それだけ幸福だったといえますが、ヱイ子に養父があらわれなかったのは、なまじ母に『ブギの女王』時代があったからなのです。これがヱイ子の将来に禍となるか福となるかーー」 笠置と頴右は結婚を誓ったが、戦中戦後の混乱の中で内縁関係のままだった。頴右は生まれた子を認知し、笠置と正式に結婚して籍を入れるつもりだったが、病に倒れてそれを果たせなかった。いかに無念で心残りだったか察せられる。 だが、父親が死亡したあとではもはや認知が不可能になり、生まれた子は法律上“非嫡出子”、俗に言う“私生児”となる。たとえ新憲法の下でも入籍は難しかったようだが、事実婚を証明するなど何らかの方法で父親との親子関係を証明する方法もなくはないらしい。だが笠置はあえて戸籍にはこだわらない道を選択した。
そこにはまっすぐに生きる笠置のいさぎよさ、自立した女性の矜持が感じられる。こうして笠置シヅ子は未婚の母になり、「乳飲み子を抱えたブギの女王」となった。この頃の映画雑誌にそんな笠置についてこういう記事がある。 「吉本家よりヱイ子ちゃんの引取りを言ってきたり、林弘高氏からも預かろうとの話もあったが、彼女は愛児を自分と同じ貰われっ子の宿命に落とすに忍びず、あくまで手元で育てる決意らしい」(映画雑誌『東寶 エスエス』1948年3月号「ステイジ女性寸描」旗一兵) ● 名曲『東京ブギウギ』は 笠置自身の復興ソング 笠置をそばで見ていた服部良一は自伝にこう書いている。 「幕間には楽屋へ走り帰って、ヱイ子ちゃんをあやし、ときには乳房をふくませて、また、あわただしく舞台へかけ戻る。質素で、派手なことをきらい、まちがったことが許せない道徳家でもあった。しかし世話好きで、人情家で、一生懸命に生きているという感じをにじませていた」。 ここには師匠・服部の温かいまなざしがある。 笠置は日劇「ジャズカルメン」の舞台を最後に引退して出産後には吉本頴右との結婚を計画していたが、それも叶わぬ夢となった今、愛児を抱えて再び歌手として復帰しようと決意した。笠置はそのときのことを、手記にこう書いている。