『まんぷく』福子のモデル・安藤仁子 幼稚園も小学校も入学式にすら出席できず。高校は休学して働きに…「武士の娘」の意地で生き抜いた幼少期の<極貧生活>とは
◆楽しい女学校の生活 楽しい女学校の生活が始まりました。体の大きい仁子は水泳の選手になりました。泳ぐことも上手でしたが、高飛び込みが得意でした。学校では、当時、アメリカのミュージカル映画で大流行したチャールストンを皆の前で踊って見せるような一面も見せました。キング・オブ・ハリウッドと呼ばれた大スター、クラーク・ゲーブルの美貌にあこがれました。 仲のいい友達もできました。桑島貞子と馬淵冨美子です。 そろって大柄な上に、末っ子同士なので気が合いました。三人とも、年をとった母親に育てられたため、大人びたところも共通していたのです。いつも一緒に腕を組んで歩いていたので「仲良し三人組」と呼ばれていました。廊下で出会うと、先生の方が小さくなって避けて通ったそうです。 よくやった遊びは“リンゴの皮むき占い”でした。切れないように最後まで皮をむき、それを真後ろに投げます。地面に落ちてクルクルと巻いた皮の形がアルファベットの文字に見えます。それが将来の結婚相手のイニシャルだというのです。 三人組はいつも朝のうちにお腹がすいて「早弁」をすませました。 「今日もおかずはチリメンジャコだけでしょ」と桑ちゃんに冷やかされます。 「お陰で骨は丈夫」と仁子はやり返しました。 「わっはっは」と馬淵さんが大笑いします。体だけでなく、声も大きい女の子だったのです。 昼になると、またお腹がすいて、食堂に行ってうどんを食べました。午後になると、学校の近所の店でパンを買ってきて食べました。お陰で三人とも、よく太っていました。 「マーちゃん(仁子)は性格がおおらかで、モノにこだわらない、のんびり屋さんだった」というのが、桑島の回想です。 桑島の母親は厳しい人で、よその子が悪戯をしたら、きつく叱りました。「子どもは社会の子」という信念の持ち主で、友達を家に泊めることを許しませんでしたが、「マーちゃんだけは別」と大目に見てくれました。 一年生、二年生の時の仁子の成績はいつも一番でした。級長も務めました。あまりにすばらしい答案だったため、百点満点の答案に百四点がついたこともありました。先生方にとても可愛がられたのです。
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