30年変わらぬ体育館での雑魚寝「劣悪環境」の避難所が生む関連死 自治体任せから脱却を 備えあれ⑤避難力
真冬の能登半島を襲った地震から4日後、被災地に入った「被災地NGO恊働センター」(神戸市)の増島智子(54)は「阪神大震災と何も変わっていない」と目を疑った。避難所となった体育館の床に段ボールを敷き、毛布にくるまって雑魚寝する被災者の姿が、30年前の神戸と重なったからだ。 【写真】昭和5年11月の北伊豆地震で県立三島高等女学校(当時)の講堂に避難したとみられる被災者 支援物資を配りながら巡回した各避難所は、寒冷地ゆえに石油ストーブなどの暖房器具は多かった。だが、多くの避難所の床は土足で汚れ、トイレは見るに堪えない状況だった。「むしろ阪神大震災より環境が後退していると思う避難所もあった」と増島は語る。 阪神大震災が起きたのも厳冬の1月。神戸市兵庫区の兵庫大開(だいかい)小では当時同校の教頭だった阿部彰(78)らが、集まった避難者への物資配給や安否確認に追われた。 一帯が停電する中、奇跡的に電気が通じた同校には一時、2千人を超える被災者が詰めかけた。暖房設備はあったものの冷え込みは厳しく、被災者は体育館や教室の床に段ボールを敷いて寒さをしのいだ。数日間は炊き出しもなく、配給のパンやおにぎりを分け合って過ごした。「みんな温かいご飯を食べたいと思っていた」。ストレスがたまったのか、配給を巡る小競り合いも起きた。 内閣府の統計によると、阪神大震災での死者は6434人で、うち約900人が長引く避難生活での身体的負担などによる「災害関連死」だったとされる。ただ、死亡統計の解析などから、実際の関連死はさらに多かったとみられる。 避難所の劣悪な環境は、関連死の大きな要因となっている。その劣悪ぶりを象徴するのがトイレだ。水が使えず不衛生な場所で用を足すのをためらい、我慢を強いられる被災者は多い。 ■不衛生なトイレ「同じことの繰り返し」 「夜中にトイレに起きると隣の人に迷惑がかかるから、あまり食べないし飲まないという避難者もいた」。阪神大震災の1カ月後、被災地入りした民間団体「日本トイレ協会」会長の山本耕平(69)は振り返る。 神戸の各避難所はトイレの排水管が破断するなどして使えず、仮設トイレも処理が追いつかなかった。山本は汚物が回収されるまでの「時間稼ぎ」の方法を指導して回った。「(排泄(はいせつ)の我慢は)健康に悪影響だし、最も重要な衛生管理がおろそかになっていると実感した」。ただ、1年前の能登半島でも「同じことが繰り返された」。