NYタイムズの酷評を超えた 和太鼓ソリスト林英哲が語る「美しい誤解」
1976年。モントリオールオリンピックでコマネチが史上初の10点満点を連発したこの年、国内はロッキード事件やミグ25事件に揺れていた。しかしそんな喧騒とは無縁な生き方をし、建国200年に沸き立つアメリカで人生の大きな転機を迎えた日本人がいた。林英哲。いまや和太鼓ソリストとして世界を飛び回る林だが、当時はまだ24歳の青年。そんな無名の若者が、小澤征爾が音楽監督を務めるボストン交響楽団と共演したのだった。 「前年のボストン・マラソンに出て、完走後にゴールで太鼓を打つパフォーマンスをしたのですが、それを小澤さんが家族で見にこられていて。面白いから共演しようとお話をいただき、一年後に音楽祭の場で本当にやることになったんです」
真言宗のお寺の息子、和太鼓に生来の感覚
広島県出身。実家は真言宗のお寺で、8人兄弟の末っ子として生まれた。グラフィックデザイナー・横尾忠則に憧れ美術家を目指し、高校卒業後の1970年に上京。美術学校に通うも翌年、鬼太鼓(おんでこ)座創設に誘われ、なし崩し的に参加。主宰者が4年制大学と職人村を設立するとして若者を集め、佐渡島で長期に渡り合宿生活を始めた。海外で和太鼓を演奏し資金を得て、7年後の大学設立をもって解散するというふれこみで、ボストンにおけるパフォーマンスも鬼太鼓座として披露したものだ。 「こういう仕事をやっていると、子どものころから太鼓が好きで……って思われることが多いのですが、僕も一般の方が『ふーん、太鼓ね』っていうぐらいの認識しか持っていなかったんです。太鼓は美術家になるのに役立つ、ちょっと違った経験というつもりだった。スカウトのときの口説かれ方が、そういう言い方でね」 演奏経験はなかったが、釣鐘や木魚など鳴物に囲まれた環境に育ったせいか、中学生になるとビートルズに魅せられ、スティックと教則本を買いダンボール箱をドラムに見立てて叩いたという。高校生になると、ドラムのフルセットを買った。和太鼓には鬼太鼓座で初めて挑んだが、生来の感覚もあったのだろうか、林は自然に奏者の中心となっていた。 「小澤さんのセレクションで石井眞木さんに曲を書いていただき、世界有数のオーケストラとやることになり、太鼓がここまで音楽的な表現になるということがすごく大きかった。従来、郷土芸能とされてきた太鼓は、酒飲んで酔っ払って打つぐらいのダサいものだと思われていたんです。実際、習い始めたときは、ドンドコドンドン、ドッコイ!サァドッコイ!みたいな太鼓でしたから、海外で見せてどうするの?と思っていた」 小澤率いるボストン交響楽団との共演は、結果、聴衆が総立ちになった。レナード・バーンスタインをはじめ、その場に居合わせた世界の一流の音楽家が大絶賛した。それが、プロの演奏家として生きるという自覚を持ち始めた第一歩となった。 その後、鬼太鼓座と分裂する形で鼓童というグループにも参加したが、82年に太鼓独奏者として一人での活動を開始した。84年にはカーネギー・ホールにデビュー。現代音楽の分野でも前例のない和太鼓ソリストとして世界的な評価を得てからもなお、試行錯誤や創意工夫を重ね、独自の奏法・表現を追求し続けてきた。98年からは、青年時代に夢見た美術家と太鼓が重なった。マン・レイなど好きだった美術家をテーマに舞台作品を生み出し始めたのだ。また、クラシックやポップス、バレエなど他ジャンルとのコラボレーションにも積極的で、太鼓にまったく新しい命を吹き込んだ創作活動は、林英哲でなければ成し得なかった。