横浜中華街で料理店をはしごしてわかった「塗り変わる勢力図」
『地球上の中華料理店をめぐる冒険』の著者チョック・クワンは、1960年代に香港から日本に移住し、横浜のインターナショナルスクールに通った。コロナ禍が明けてから横浜の中華街を再訪したクワンは、半世紀以上のあいだに中華街の味も人も様変わりしていることに気づく──。 【動画】チョック・クワン監督が地球上の中華料理店を巡って撮ったドキュメンタリーシリーズ『Chinese Restaurants』 ※本記事は、関卓中『地球上の中華料理店をめぐる冒険』の抜粋です。
横浜のインターナショナルスクールに通った思い出
歴史を振り返れば、日本と中国の間には、7世紀の唐の時代から絶えず接触があった。15世紀初めには、福建省を中心に中国沿岸地域から貿易商が両国間を頻繁に往復し、ついでに海賊も跋扈(ばっこ)するようになった。 だが、こうした貿易商が日本に住めるようになったのは、もっと時代がくだってからだ。17世紀初めの徳川時代に入って、長崎の出島で暮らすことが許されたのである。 時代は明治に変わって数年が経った1871年、中国との貿易や居留地として神戸や横浜など8つの港が開港した。 横浜の中華街は、貿易商や買弁(欧州からの貿易商が中国人と取り引きする際に取引交渉に当たった中国人商人)として働くために、広東省出身者を中心に定住が進み、ゆっくりと発展しながら、やがて最大の中華街となった。 横浜には素敵な思い出がいくつもある。4年間、渋谷から東横線に乗って、横浜・山手地区、通称「ブラフ」(居留民の間では、山手地区の地形から「切り立った崖」を意味する「ブラフ」と呼ばれた)にあるカトリック系のインターナショナルスクールに通った。 この地区は開港以来、外国人居留地としての歴史があり、ここで外国人が暮らし、そして亡くなれば外人墓地に埋葬された。 中華街は、山手の高台から降りたところにある。日本への中国人移民の第1陣が最初に定住した地区である。いつもこの街には買い物や食事を目的に中国人が集まってくる(中華粥に目がない私の父のように東京からの遠征組もいるほどだ)。世界の多くのチャイナタウンと同様に、横浜中華街も観光地としての側面を併せ持つ。