横浜中華街で料理店をはしごしてわかった「塗り変わる勢力図」
様変わりしていた横浜中華街
2023年に訪日した私は、長らく見ていなかった日本の中華料理事情がどのように変わったのか知りたくて横浜中華街に足を運んだ。 最初に訪ねたのは、あの「謝甜記」だ。1950年創業の同店は、現在、創業者・謝の孫である3代目が経営を預かっている。中華街の東の玄関口となる朝陽門から1ブロックほど入った角にあることは当時から変わっていないが、店構えは新しくなっていた。もっとも、店名の謝甜記の書体は当時のままだ。 店内はほとんど変わっていなかった。木のテーブルが10卓あり、それを簡素な木製椅子が囲む。収容客数は30人ほどだ。 メニューはどうか。粥は25種類以上。その多くは、猪潤粥(豚レバー粥)、及底粥(豚モツ入り粥)、皮蛋艘肉粥(ピータンと豚赤身肉の粥)など、豚の各部位(レバー、マメ、ハツ、シロ、ガツ)、魚の浮き袋、皮蛋(ピータン)のように広東人しか食べそうにない具の粥だ。 私に言わせれば、これぞ本場の味である。伝統的なメニューにこだわり、料理の内容や料理法に妥協しない姿勢の表れでもある。 だが、今日の中華街は様変わりしている。中華街の5つの入り口には、凝った装飾の牌楼(訳注:中華街の入り口にある屋根付きアーチ)が建てられ、ずいぶんと洗練された。 「外省菜」(訳注:かつて主流だった広東省以外の料理)や「北方菜」(訳注:南部の広東省から見て、文化的に異なる北部の料理)を売り物にする看板が増えた。この書き方だと、具体的な地域名ははっきりとせず、広東省中心主義が滲み出ている。 ファストフード型の手軽なテイクアウト店の看板には、王府井生煎包(焼き小龍包)、上海小龍包、四川担担麺とあり、店の前には10分待ちの行列ができている。 また、日本流の中華料理勢からは「崎陽軒」の焼売(聞くところによれば、横浜駅の元駅長が売り出したそうだ)や中華饅頭(中華まん)も負けてはいない。 昔の中華街では、「王朝」とか「老上海」といった名称が店の看板に使われることはなかった。 中華街はもはや広東省の飛び領土ではないのだ。今や中国のあらゆる地域から住民や料理が流入し、多様化している。同時に、観光地化も進んだ。 もちろん、歴史ある高級中華料理店もわずかながら存在し、招待客を何百人も集めた盛大な結婚披露宴や誕生祝賀会にも対応できる十分な広さがある。こうした集まりは、今も広東人の伝統として受け継がれている。
Cheuk Kwan