「とうとう銀行が破綻しました」蔵相の失言が取り付け騒ぎの引き金に…それでも当の銀行幹部が「笑みを浮かべた」は本当か【昭和の暴落と恐慌】
歴史の転換期のうねりに巻き込まれた
銀行が破産した後、渡辺家は目白の屋敷から別荘から、すべての財産を失った。「住む家もなくなり、横浜の分家に建ててもらった」そうだが、 「片岡蔵相の発言については、父や六郎は何も語りませんでした。当時の使用人の中には、『大臣があんなことを言わなければ』と言う者もいましたが、渡辺家の人間は、あの発言に対して特に恨みを持つことはなかったと思う。私自身、恨みに思うほど身近な話じゃありませんし、渡辺銀行の崩壊は、あの発言がなくとも早晩起きたんじゃないかと思います。 ただ、大学の時に見た写真はショックでしたね。取り付けに行った老婆が渡辺銀行の前で茫然と座り込んでいる。『オレの家はこんな悪いことをしたのか』と思いました。今では、渡辺家が預金者に迷惑をかけた事実は消えないけれど、渡辺家自身も歴史の転換期のうねりの中に巻き込まれていった犠牲者だったと、そう納得しています」
蔵相側の“饒舌”と渡辺家の“沈黙”
『失言恐慌』の著書がある評論家の佐高信氏も“渡りに船説”には 疑問を投げかける。 「そもそも喜色満面というのは当時大蔵省の文書課長であった青木得三が語っているだけす。そして、昭和の金融恐慌の歴史は、この青木の回想をもとに綴られてきた。公刊された資料がこれしかないから仕方のないことかもしれませんが、一方の当事者の発言だけをもとに書かれてきたわけです。 私は企業家の肩を持つ気はありませんが、蔵相側 の“饒舌”と、渡辺家の“沈黙”の間にあるものを掘り起こさなければと思うんです。それに、片岡蔵相は直接の責任は免れ、一方、渡辺銀行はすべての財産を売却し、責任を取らされた。政治家が責任を取らず、民間人がすべての責任を取らされるという構図は、昔も今も全く変わらない。リクルートと同じことですよ」 ちなみに、片岡蔵相は1934(昭和9)年に死去。娘が2人いたが、現在は曾孫にあたる女性が、高知県の生家近くにある蔵相の墓参りに来るという。 *** 第2回【〈一村の少女全部が姿を消す〉〈娘売る山形の寒村〉…未曾有の「世界恐慌」が日本にもたらした“失業地獄”の惨酷な現実】では、日本で昭和恐慌とも呼ばれる1929(昭和4)年の世界恐慌について。世界的に見てもいまだに過去最大とされるこの恐慌は、米ウォール街の株価暴落が引き金だった――。
デイリー新潮編集部
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