「とうとう銀行が破綻しました」蔵相の失言が取り付け騒ぎの引き金に…それでも当の銀行幹部が「笑みを浮かべた」は本当か【昭和の暴落と恐慌】
失言を知り「満面に笑み」
蔵相にあるまじき不用意な発言。しかも、実はその時点では渡辺銀行は破綻していなかったとあって、野党代議士から、「自分の失言のために、まだ死んでいない銀行に死刑の宣言をしてしまった」と批判されたのも当然だった。 翌年6月、渡辺銀行は正式に破産宣告を受ける。銀行側にすれば蔵相の失言で破産に追い込まれたわけで、蔵相を恨んでも恨みきれないはず。ところが、奇っ怪なエピソードがある。蔵相を恨むはずの銀行幹部が、蔵相の失言を知った時、「満面に笑みを浮かべた」というのだ。なぜなら、 「当時の渡辺銀行は、つぶれる寸前と言ってもよかった。片岡蔵相があのような失言をしたのも、あの日、同行の渡辺六郎専務が大蔵事務次官に『私の銀行は、手形交換尻を決済する金がありません』と告げたからです。ようやく午後に資金繰りがついたため、蔵相の発言は“虚言”扱いされましたが、実態はそれほど危機に瀕していた。 ですから、渡辺六郎専務が大蔵省の高等官から蔵相の失言を聞いた時に、満面に笑みを浮かべたというのも頷けます。どうせつぶれるなら、蔵相失言のせいにした方が悪い評判が残らないし、言い訳もたつ。渡辺銀行にとっては、渡りに船の失言だったんですよ」(某経済評論家)
六郎に経営者としての才能はなかった
昭和史を記した書物の中で、この“渡りに船説”は、かなり幅をきかせている。が、 「大叔父の六郎が“喜色満面に笑った”というのは、ちょっと信じ難いですね」 と、淑徳短期大学の渡辺保教授=演劇論=は言う。もともと渡辺家は、享保年間から日本橋で海産物問屋を営んでいた。銀行創業は1877(明治10)年で、金融恐慌時の頭取が十代目治右衛門(じえもん)。保氏はその孫にあたる。 「私も歌舞伎のことを書くからわかりますけど、面白い話には飛びつきやすいものなんです。私が、六郎は笑わなかったと思う理由は2つあります。まず、六郎は、『渡辺家を危機に陥れたくない』と考えていたはずであり、それができなかったため、後に自分の妻や息子に『先祖の墓前で腹を切って死にたい』と言ったそうです。 第2に、六郎は俳句などが好きな趣味人で、経営者としての才能はなかった。人柄から考えても、蔵相の失言を利用することなど、思いつかなかったんじゃないでしょうか。計画倒産に至っては、とんでもない話ですよ」