ノーベル化学賞の吉野彰氏が会見(全文3完)柔軟性と剛直性が必要
宮崎県延岡市での実験の位置づけは?
西日本新聞:九州の西日本新聞の【ナカノ 00:49:31】と申します。おめでとうございます。 吉野:ありがとうございます。 西日本新聞:宮崎県延岡市での実験がリチウムイオン電池の開発に、原点になったといわれていますけれども、そのときのことを振り返っていただきたいのと、また、その実験がどんな位置付けなのかというのを教えていただけますでしょうか。 吉野:新型2次電池の研究は盛んに行われたんだけど、なかなか商品化ができませんでしたというのが過去の流れなんですね。なぜ商品化できなかったかというのは、やはり安全性の問題なんですね。私はリチウムイオン電池なるものを発明して、負極の材料を変えたんですよね。それが本当に安全性をクリアしたかどうか、これがもうまさに最大のポイントだったんです。もし大した改良ではないという結果が出たら、当然その時点で研究はやめです。もしそれで明らかに大きな課題はクリアしたねという実証が得られれば、思い切って前は進みましょうと。 じゃあそれをどうやって実証するかというのも当然非常に悩みましてね。まず場所ですよね。当時の私の研究の拠点が神奈川県の川崎の工場の一角に研究所がございましてね。ご存じのようにいわゆる石油化学コンビナート地区なんですよ。そんなところで安全性の試験できるわけないし、じゃあ内緒で多摩川のどこかでやって消防車でも来たらまた大変だしっていうことで、じゃあ何があっても大丈夫なのはたぶんダイナマイトの試験場でしょうということで、これは当時の工場長に非常に無理をお願いしまして、安全性の試験をやらせてくださいと。幸いにもそこでベーシックな意味の安全性は一応クリアしましたねと。あとはもう当然、それはもっともっと改良が必要なんですけどね。そういうことで、あの実験で前へ進めたなと思っています。という意味で、本当の意味でリチウムイオン電池が誕生したのはあの瞬間かなというふうに私は思っています。 西日本新聞:ありがとうございます。