《サッカー五輪代表から消えた天才》悲劇は小野伸二や小倉隆史の大ケガだけでなく、少なすぎ18人枠で…名パサーや守護神「逸材の落選後」
戸田、市川らは五輪落選→日韓W杯出場
シドニー落選から這い上がって02年W杯メンバーの座を掴んだのは、ケガに泣いた小野だけではない。引退後は解説者として知名度を上げた戸田和幸をはじめ、市川大祐、曽ケ端準もそうだった。 戸田は五輪の翌年にA代表デビュー。清水エスパルスで最終ラインから中盤へコンバートされた時期に、ボランチとして招集された。フランスに0-5で粉砕された代表チームに加わり、重要なピースとなっていく。中盤の底から稲本、中田を支えた赤髪は、W杯での激しくも堅実なプレーでインパクトを残した。 最終的にメンバー落ちしたとはいえ、高校時代に98年W杯に同行した市川は、当然ながらワールドユースでもトルシエの構想に入っていた。しかし、オーバートレーニング症候群のため本大会を辞退すると、回復後も長らく招集されなくなる。それでもJリーグでのパフォーマンスに集中して01年に大活躍し、ぎりぎりで日韓W杯メンバーに入った。W杯出場を4年越しに日本で果たし、第3戦のチュニジア戦では中田へのアシストを記録している。
遠藤保仁ですらバックアップメンバーにとどまっていた
その後の活躍を思うと意外に見える落選は遠藤保仁か。 シドニーではバックアップメンバーに留まり、02年W杯も出場できなかったが、03年からコンスタントにJベストイレブンに選出され、06年W杯でメンバー入り。さらに10年、14年とチームの頭脳としてプレーを続けた。遠回りしながら06年ドイツでW杯に辿り着いた大黒将志や玉田圭司、加地亮らも遠藤と同じく80年生まれだ。 黄金世代の3学年上にあたる中田英は06年ドイツW杯を最後に29歳で引退。対照的に遠藤は43歳まで、小野も44歳まで長い現役生活を続けた。 谷間の世代と言われた2004年アテネ五輪でも、日本は3大会連続の五輪切符を手に入れた。しかし本戦では「それまでのキャプテン」にまさかの悲劇が待っていた――。 <つづく>
(「サッカー日本代表PRESS」生島洋介 = 文)
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