「山一証券破たんの調査をやってくれませんか」なぜ“ミンボー専門”のマチベンだった42歳の弁護士が、前例のない調査を引き受けたのか 今だから明かせる「報告書」をめぐる舞台裏ー平成事件史(17)戦後最大の経営破たん
「山一証券には、すごい数の総会屋が出入りして、会社はそうした総会屋が発行する情報誌を定期購読する名目で、資金を提供していました。 これを断ち切るために、すべての総会屋に『内容証明郵便』を送りつけて、情報誌の『定期購読』の打ち切りを通告したんです。 そしたら、総会屋が『ふざけるな』と押しかけてきた。彼らは『われわれは正当な政治団体である』と主張する。隠しカメラ付きの特別な部屋に案内して、わたしは隣の部屋に待機して、モニターでやりとりを見ながら監視した。 社員はビクビクしているが、おかしな動きがあれば、わたしがすぐ中に入って、警察に110番通報する。 たとえば、総会屋はまずふんぞり返って、タバコを吸おうとする、その行動パターンを先読みして、わざと灰皿を出さずに『ここは禁煙です』と言って肩透かしをくらわせるとか。そんな戦闘モードで山一証券に通い、総会屋や暴力団と向き合う日々が続いていました」(国広) ■「まずい事実が判明した場合でも、公表しないとは言わないでください」 それは3連休の初日だった。国広は1997年11月22日の朝、目が覚めると同時に、山一証券の「経営破たん」を知ることになる。 「土曜の朝、山一証券自主廃業という日経新聞の見出しが目に飛び込んできた。その瞬間、『自主廃業』って何だろうって。山一が自主的に廃業するとはどういうことなのかと」 週明けには、テレビで一斉に野澤社長の記者会見が中継された。このとき初めて、野澤の口から『簿外債務』や『自主廃業』という聞き慣れない言葉が飛び出す。 これは再建をめざす法的な整理手続きではなく自主廃業、つまり会社がなくなることを意味した。 「残念だけど、せっかく民暴事件やっていたのに、ああ、これで私の山一の仕事もなくなったなと思いました」(国広) しかし、運命の糸に導かれるように、国広は山一証券の仕事に戻ることになる。 経営破たんを受けて、原因を究明するための「社内調査委員会」が設置され、委員長となった嘉本から「一緒にやってくれませんか」と打診があったのだ。