「山一証券破たんの調査をやってくれませんか」なぜ“ミンボー専門”のマチベンだった42歳の弁護士が、前例のない調査を引き受けたのか 今だから明かせる「報告書」をめぐる舞台裏ー平成事件史(17)戦後最大の経営破たん
「とくに民事介入暴力対策が好きでした。独立する前は2年間、アメリカにも行ってました。と言っても、マチベンだからアメリカに留学する理由はないんです。 妻が順天堂大学の研究者(PHD)で、薬理学の研究のために渡米したので、5歳と3歳の子どもの世話をするために私も弁護士を休業して同行しました。 当時としてはめずらしいハウスハズバンド(主夫)です。忙しい妻にかわって保育園の送り迎えなど、育児に励みました。でもせっかくだから、ニューヨークの法律事務所 で研修生もやりましたが、それもなかなか入るのが難しくて、何か所も断られて、1か所だけ拾ってもいました。もちろん給料はでないですけど」(国広) 帰国した国広は、弁護士としてマンション建設反対の住民運動の代理人や、「民暴」の対応にやりがいを感じていた。 「民事介入暴力」とは、警察が民事に介入できないことを逆手にとって、暴力団などが民事の揉め事に介入して、脅迫などで不当に金品を要求する行為で、通称「民暴」と呼ばれる。 そんなとき、たまたま所属していた第二東京弁護士会の「民暴委員会」に、山一証券から「総会屋と縁を切りたい」との相談があり、弁護士が派遣されることになった。そこで民暴対策が好きだった国広が、そのメンバー5人の中の1人として選ばれたのである。 大企業の仕事はもちろん初めてだったが、その方面には縁があった。 国広が生まれ育ったのは、大分県別府市の温泉街。小さい頃から周りにヤクザがいるのが日常で、身近な存在だったという。 「クラスには必ず一人か二人はそちらの関係の息子や娘もいました。いわゆる『置屋』もあって、通りかかると、そこにいる女性たちやヤクザから話しかけられたり、銭湯には刺青の入ったヤクザが普通に来ていたりで、総会屋とか暴力団対応とか、まったくアレルギーはなかったんです」(国広) 国広が山一でまず最初に挑んだのが、総会屋から定期購読していた「情報誌」をすべて解約するという大仕事だった。