『光る君へ』その後。紫式部の孫と清少納言の孫は恋愛スキャンダルを起こし…記録があまり残っていない<有名女流文人の次世代>のナゾに迫る
大石静さんが脚本を手掛け、『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマの放映をきっかけとして、平安時代にあらためて注目が集まっています。そこで今回は「紫式部や清少納言ら有名女流文人の次世代」について、新刊『女たちの平安後期』をもとに、日本史学者の榎村寛之さんに解説をしてもらいました。 藤原道長からいじめ抜かれた定子を清少納言は懸命に守ったが…紫式部が日記に<清少納言の悪口>を書き連ねた理由を考える * * * * * * * ◆賢子こと大弐三位について ついに完結した大河ドラマ『光る君へ』。 最終回では「私は光る女君ですもの」と語る紫式部の娘・賢子(南沙良さん)が藤原頼宗を押し倒すシーンが印象的でした。 その賢子こと大弐三位(だいにのさんみ)は『光る君へ』でもなかなか重要な役割を果たしていたので、ドラマを通じて知名度が著しく上がったと思います。 彼女が後冷泉天皇の乳母、藤原賢子だったことはほぼ間違いないのですが、賢子という名前がドラマのように、生まれた時に付けられたものとは考えにくい。 おそらく後冷泉天皇の乳母になり、彰子付き女房から女官に配置替えになった頃に付けられた名前と見るのが妥当な所でしょう。 育てた子が天皇になると乳母には従三位の位が与えられるので、賢子は、身分としては大納言級、つまり準大臣並みにまで出世を極めた時の名前ということになります。
◆賢子以外にもいた<女房の娘>たち さて、大弐三位の他にも女房の娘が出仕していたと考えられる例はしばしば見られます。 たとえば赤染衛門の娘は江侍従(ごうのじじゅう)と言われ、『赤染衛門集』には彼女の代作をした恋の歌が残されているのですが、その相手が藤原道綱とも、道長と倫子の次男である教通とも読めるのでややこしい所です。 ドラマでは上地雄介さんが演じていた道長の異母兄・藤原道綱は赤染衛門と同世代で天暦九年(955)の生まれ。一方、赤染衛門の子で、江侍従の兄弟となる大江挙周(おおえのたかちか)が、その官職の昇進過程から見て980年くらいの生まれと見られる。 つまり、江侍従は道綱よりかなりの年下、長徳二年(996)生まれの教通よりかなり年上に。このあたり確たる資料があるわけではないのでなかなか難しいのです。 「娘が出仕」といえば、清少納言の娘も出仕していたとする説があります。 『尊卑分脈』によると、藤原棟世(むねよ)という藤原南家(摂関家からはかなり離れた“ローカル藤原”氏)の受領貴族の子に上東門院(藤原彰子)に仕えた「小馬命婦(こまのみょうぶ)」という娘がいました。彼女が歌人藤原範永(のりなが)の歌集から、<清少納言の娘>だと推測されているのです。 清少納言の夫としてよく知られているのは、離婚したのに『枕草子』には「兄」として出てくる橘則光(のりみつ)です。そして、則光の次の夫とされるのが棟世です。 なお、則光と清少納言の長男・則長の生年が天元五年(982)。 ですので、小馬命婦はそれより年下と見られます。そして清少納言が定子に出仕した時期が正暦四年(993)頃からと見られるので、小馬命婦はその間の生まれと思われます。 世代を整理すれば、赤染衛門の娘・江侍従が3人のうち最も年上で、その次が清少納言の娘・小馬命婦。さらにその下が紫式部の娘・大弐三位、という関係になるでしょうか。
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