『光る君へ』その後。紫式部の孫と清少納言の孫は恋愛スキャンダルを起こし…記録があまり残っていない<有名女流文人の次世代>のナゾに迫る
◆「清少納言の孫」と「紫式部の孫」が恋愛? 清少納言の娘・小馬命婦は、長徳元年(995)の「長徳の変(藤原伊周と弟の隆家が花山法皇を襲った事件)」の前後、彰子のところに出仕していたと見られています。 『枕草子』によると、ドラマとは違って、清少納言は道長に近しかったようなので、その線から彰子の元に出仕したのでしょうか。それが、長徳の変の後に清少納言が定子の元に居づらくなった理由の一つになったのかもしれません。 小馬命婦の生涯についてはほとんどわからず、いろいろな説があるのですが、少し興味深いのは藤原伊周の娘(帥の御方=そちのおかた)が、伊周が寛弘七年(1010)に死去した後、太皇太后となった彰子の元に出仕しているらしい、ということ。 つまり清少納言の娘が、定子の姪の「先輩女房」になっていたのかもしれないということですね。 『後拾遺和歌集』には、小馬命婦が自分の娘に代わって不実な恋人に遣わした歌が採られているのですが、彼女が本当に清少納言の娘ならこの話、少し面白いことになります。 その恋人は詞書によると“為家朝臣”とあり、高階為家(たかしなのためいえ)だとされています。だとすれば、その母は大弐三位で紫式部の孫。つまり二大才女の孫同士の恋愛スキャンダルになるのです。 紫式部の孫・為家の生年は長暦二年(1038)。小馬命婦の娘の年は分かりませんが、990年より前とすると、その娘は1010年代の生まれと見るのが妥当なところとなるので、為家よりはいささか年上になるように思われますが・・・。
◆なぜ紫式部らの次世代の実績がよくわかっていないのか このように、紫式部や清少納言ら有名女流文人の次世代も、それぞれに宮廷女房、あるいは女官として活躍していたようなのですが、その実績は意外と明らかになっておらず、和歌の一節や系図の断片から考えなければならない状況にあります。 その理由として、藤原頼通の時代になると『御堂関白記』や『小右記』のようなまとまった日記もなく、また『源氏物語』や『栄花物語』のような高名な文学作品がなかったことと関係があると思われます。 その中で、文人として活躍したのが菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)です。『光る君へ』の最終回に、吉柳咲良さん演じる「ちぐさ」として登場しました。 『更級(さらしな)日記』の著者として知られている彼女の母の姉妹はかの右大将道綱母です。つまり『蜻蛉(かげろう)日記』の作者の姪にあたります。 『源氏物語』の熱烈な読者として知られる彼女は、後朱雀天皇の皇女で藤原頼通が後見した祐子(すけこ)内親王に女房として仕え、文化人として活躍しました。 『浜松中納言物語』や『夜半の寝覚』などの小説の作者と言われていますが、実は、どちらもその全てが今に伝わっているわけではない。つまり彼女のような時代を代表する文人女性ですら、その全容は断片的にしかわかっていないのです。 その理由として、もちろん前述したように今に残る日記などの資料が少ないこともあるのですが、それは単に資料が散逸してしまったのか、それともたまたま資料が残らなかったのか、さらには文献や個人に対する関心の差なのか…。 それについては、あまり議論されたことはありません。菅原孝標女の実像はこれからの研究が待たれているところなのです。
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