巨人で「幻のスラッガー」となった男たち…“王貞治のライバル”やけがに悩まされ続けた選手も
結果論だが、早大受験の際に受験票を忘れさえしなければ、巨人入団も1年早まり、多くの出場機会を与えられることによって、覚醒前の王とのポジション争いに勝っていたかもしれない。 また、プロでは大成できなかったが、木次の存在が大打者・王を生み出したとも言える。本人も77年に40歳で他界するまで王を応援しつづけていたという。 幻のスラッガーといえば、89年にドラフト1位で入団した大森剛の名前も挙がるが、その前年にドラフト4位で入団した四條稔も、けがさえなければ、巨人の主軸を打っていたかもしれない一人だ。 1年目はカリフォルニアリーグに派遣された四條は、2年目の90年5月2日の中日戦で1軍デビュー。いきなり3安打2打点と結果を出し、翌91年のグアムキャンプでは、藤田元司監督から「今年期待の選手」として名を挙げられた。ところが、そのキャンプ2日目に、思わぬアクシデントに見舞われてしまう。 「ウォーミングアップの『回転ジャンプしてダッシュ』という種目のときに、着地したらズボッとカニの穴にはまって、回転の力が加わっていたんで、左膝の靭帯を切ってしまったんです」。 手術後の翌92年は膝も良くなり、出場83試合で打率.310をマーク。レギュラー獲りに大きく前進した。 ところが、オフに有鈎骨を骨折し、翌94年に再び手首を痛めるなど、故障が相次ぎ、都合3度の手術を経験した。 そして、95年のシーズン開幕後にトレードでオリックスへ。「けがも続いていたし、チームを変わることで、また1からアピールできる」と気持ちを切り替え、新天地で再起を期した四條は、移籍2年目の96年に自己最多の108試合に出場。日本シリーズで古巣・巨人を下して日本一になった。 だが、翌年以降は左膝の古傷が再び悪化。横浜移籍後も膝が思うように動かず、99年限りで現役引退。コンビニ経営者時代に取材で顔を合わせた四條氏は「引退する選手は、大なり小なり悔いはあっても、それを言ったらきりがないということで、みんな『悔いがない』と言うんだろうと思うんですけど、膝さえけがしなければとか、悔やんでも元には戻りませんからね。1年目アメリカ行ってたんで、実質10年ですね。今思うと、あっという間の10年でした」と振り返っている。