「あるべきだけど作られていない映画を作る」…ドキュメンタリー「アイヌプリ」の福永壮志監督
見せるべきか否か、編集段階で逡巡(しゅんじゅん)し、いったんカットしたものの、シゲさんたちとの対話を経て戻したシーンもある。「本人との対話を通してでしか、線引きはできないと、改めて思いました」
本作に限らず、「映像で何かを撮って、不特定多数の人に広く見てもらうというのは、すごく暴力性というか、大きなリスクも含んでいる。知った気になったり、思い込みでやってしまうと、どこかで誰かがすごく傷つくということが起きてしまうのではないかと思う」と話す。
その一方で、「『傷つくかもしれないから、やらないほうがいい』ということになると、芸術の存在意義自体をそいでしまうことになる」とも。
「たとえば、『当事者しか当事者の映画は作れない』ということをやってしまうと、窮屈な世の中になる。外からの視点だからこそ描けるものは、やはりあって、試行錯誤しながら、歩み寄って描くことで、何かいろいろなものが広がっていく、いろいろな声の多様性が担保されると思うんです」
ただ、アイヌをめぐる映画に関して言えば、アイヌの声をストレートに当事者側から代弁した作品が絶対的に足りていない。声の多様性のバランスがまだ取れていない。だから、「まだまだ当事者の声を、繊細に、大事にしなくてはいけない状況」だと考えているという。
自分の色は自然ににじみ出ればいい
「全体を見て、まだ足りてないもの、あるべきだけれど作られていないもの、自分から見て『こういう映画があるということが必要なんじゃないか、意味があるんじゃないか』と思えることに取り組むことにやりがいを感じる。がんばれる」と言う。現代のアイヌをアイヌの人々が自ら演じる『アイヌモシリ』もそれまでなかったかたちの劇映画だった。
「そうしたことを何か形にする上で、自分のやり方、自分の色が自然ににじみ出ればいいくらいに思っています。自分の場合は、自己表現をするということがモチベーションを牽引(けんいん)する要素ではないんです」