「パン作りから始めよう」 元市職員、復興への第一歩 ~宮城県・気仙沼~
集落は跡形もなく 夫の両親も……
東日本大震災での陸前高田市の死者・行方不明は1806人(消防庁資料より。2019年3月1日現在) 。また、400 人いた同市の役所職員のうち、死者・行方不明は、100人以上 に上りました。
陸前高田を襲った津波は、東日本大震災でも最大級で、その波高は最大で16~17メートルもあったとされています。 水野さんの嫁ぎ先の家は、沿岸部の高田町にありました。地震発生時、この自宅には義父がいました。義父は地震後、いったんは避難所に行きましたが、しばらくして片付けのためなのか自宅に戻りました。また、義母は、勤めている酒造会社に地震後とどまったのです。助かった同僚の話では、「夫(義父)が迎えに来るのを待つ」と話していたそうです。 そして、津波は街を飲み込み、2人の消息は途絶えました。
陸前高田市でも高田町一帯は、特に津波の被害がひどく、集落は跡形もなく消え去ってしまいました。そして、行方不明だった夫の両親は、2011年の4月、5月に相次いで遺体で発見されました。
生き残ってしまった罪悪感
震災後、水野さんは同じ市職員の夫とともに、被災した市民のために懸命に働きました。役場職員にも多くの犠牲者が出たため、所属部署の垣根を越えて「あらゆることをした」と言います。そのため、2人は両親の行方を捜すことが難しかったのです。 しかも、自らも家財全てを流され被災者となりました。水野さんは、その後体調を崩しがちになったため迷惑をかけてはいけないと市役所を辞めることにしました。震災から3年後の2014年3月のことです。 「東日本大震災で偶然助かった命。避難した建物が違っただけで、また建物のどの階段を上ったかで運命が変わってしまいました。その後はずっとサバイバーズギルト(生き残ったことの罪悪感)と、『生かされたのだ』という感覚を常に持ちながら暮らしています。市役所のお仕事はやりがいを感じとても好きでしたが、退職を決意できたのは生き残ってしまった後ろめたさがあったからかも知れません」