原因不明の発声障害、歌えない「地獄」と10年以上向き合った先に T-BOLAN森友嵐士の絶望と再生
1990年代を代表するバンドT-BOLAN。人気絶頂期に突然の活動休止、そして解散。ボーカル・森友嵐士を襲ったのは、原因不明の発声障害だった。最先端の音楽シーンと決別し、都会の喧騒から離れ一人リハビリに励む日々。歌えない地獄に10年以上苦しみながらも、決して諦めなかった理由は、「音楽をやめたら、僕が消えてしまう」。どん底を這い回る間、森友は何を考えていたのか。そんな彼を救ったものとは。(取材・文:山野井春絵/撮影:殿村誠士/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
絶頂期を襲った病い、10年経っても歌えないかもしれない
40代以上の人には馴染み深いT-BOLAN。『離したくはない』『Bye For Now』など、ヒット曲は長くカラオケの定番として今もなお歌い継がれている。 今年約28年ぶりにニューアルバムを発売し、再び脚光を浴びているT-BOLANだが、長くメジャーシーンから姿を消していた。99年の解散は、ボーカル・森友嵐士の心因性発声障害によるもの。最近でこそ、この背景はよく知られるところとなったが、当時その事実は伏せられていた。 症状が出はじめたのは、人気絶頂期だった94年の終わり頃。山梨のアトリエと、東京のスタジオを行き来する生活を数年続けながら、いくつもの医療機関を訪ね、発声障害の原因と治療方法を探していた。 今回、森友をインタビューしたのは、アトリエに近い富士山麓。木々が芽吹きはじめた春の高原に現れた森友は、タイムトンネルを潜り抜け、90年代からそのままやってきたかのような存在感を放っていた。 導かれて、知る人ぞ知る標高1200mの公園へ。カラマツの林を抜けると、パッと目の前が開け、広場が現れる。ステージのように造成された芝生の小山に登れば、大迫力の富士山が眼前にあった。
「籠もっていた時は、よく散策したんですよ。キノコを採って歩いていたら、ふっとこの場所に出て。なんて気持ちのいい場所なんだろうと。たった一人で富士山に向かって、歌のトレーニングをしてた。観客は誰もいないけど、ライブさながらに」 今でこそリモートワークで地方移住者も増えているが、森友が隠遁生活を送った頃、住人はほとんどいなかった。 「田舎育ちだから、自然に癒やされるんです。アトリエのデッキが好きな場所で、夜になるとランプをつけて、ちょっとお酒を飲みながら言葉を紡いだり、いろんなことを考えたり。時代から置き去りにされるんじゃないか、都会で磨かれる感性が鈍るのではないか……と怖かった。1週間ぐらいこっちにいると、不安に駆られて東京に戻るんだけど、八王子あたりからだんだん暗い気持ちになってくる。結局東京でも、人に会っているだけ。スケジュールが埋まっていないことが不安なわけ、最初は。なんとか人と会う予定で埋めて、僕の時間が動いていると思い込みたかった。歌えないことは発表していなかったからみんな知らないし、自分も知らないふりをしながらご飯を食べたり。何もプラスはない。だけど、なかなか断ち切れなかった」 病名を告げた医者の言葉は残酷なものだった。 「“心因性発声障害”です。明日歌えるかもしれないが、10年経っても歌えない可能性はあると思います」 いよいよ森友は東京での生活を捨て、富士山麓のアトリエを住居とした。本籍まで移したというから、当時の覚悟のほどがうかがえる。 「長くても2、3年で戻れると思っていたんです。でも10年と言われて……そんなバカなって。じゃあ、完全にこっちの人間になっちゃえと思って。バッサリいかないと、東京への未練に引っ張られてしまう。腹くくったって感じですよね。365日、24時間すべてを、声を取り戻す、そのためだけに過ごそうと決めました」