なぜ日本代表は世界トップクラスのチームに成長したのか Jリーグ誕生、呪われた10・26、ハンス・オフト監督の就任、加茂周監督の更迭…苦難の歴史を振り返る
日本代表は3月20日の埼玉スタジアムでのバーレーン戦に勝てば、8大会連続のW杯出場が決まる。1998年フランス大会以来、日本はもう「W杯に出るのが当り前」になり、当面の目標は初の「ベスト8」ながら、森保一監督や選手たちは「優勝」を口にするようになった。【六川亨/サッカージャーナリスト】 【写真】W杯フランス大会で、初出場の日本代表を率いた不世出の“司令塔”。現役時代の勇姿はもちろん、引退後のスタイリッシュなスーツ姿も目を引く ***
W杯はもちろんのこと、五輪にすら出られなかった1970~80年代からすれば夢のような時代である。そんな日本サッカーの着実な成長を語る上で欠かせないのが、やはりJリーグの誕生ということになるだろう。 日本が初めてW杯に近づいたのは1985年、翌年にメキシコで開催されるW杯のアジア予選で決勝まで勝ち進んだときだった。このときはちょっとした“運”も味方した。日本を始め極東勢が苦手とする中東勢とはセパレートで予選が行われたからである。 W杯の出場枠は極東に1、中東に1と出場権が「約束」された。さらに2次予選ではライバルである中国が香港に敗退したのである。森孝慈監督率いる日本は、MF木村和司、FW原博実らの活躍もあり、1次予選で北朝鮮とシンガポールを退けると、2次予選で香港も下して初の決勝戦に進出した。 相手は宿敵のライバル韓国である。しかし、日本より一足先にプロリーグを創設した韓国は強かった。スコアこそホームで1-2、アウェーで0-1と僅差だったが、実力差はいかんともし難かった。日本はホームで木村が伝説となるFKから1点を奪うのがやっと。韓国が1954年スイス大会以来、32年ぶり2回目のW杯出場を果たした。
呪われた10・26
それから2年後、石井義信監督に率いられた日本は、ソウル五輪予選の決勝までコマを進めた。当時の日本はまだアマチュアの時代。W杯に出場できるかもしれないという「夢」を見たが、現実的な目標は1968年以来となる五輪出場だった。宿敵の韓国は開催国のため予選には出場しない。 日本にとっては千載一遇のチャンスであり、アウェーの初戦は原のゴールで中国に1-0の勝利を収めた。ホームでの第2戦は引き分けでも20年ぶりの五輪出場が決まる。1987年10月26日、小雨の降る国立競技場には5万のファンが詰めかけたが、試合は0-2で敗れ、つかみかけた五輪キップは幻となった。 2年前、同じ国立競技場で韓国に1-2で敗れたのも10月26日。サッカーファンにとって「10・26」は呪われた日として記憶されることになった。 しかし、悪いことばかりでもなかった。日本サッカーリーグの事務局長を務めていた木之本興三(後のJリーグ専務主事、2002年日韓W杯強化推進本部副本部長などを歴任)は、2大会連続しての決勝戦敗退に危機感を募らせた。 「日本を強化するにはもうプロ化しかない」──そう決意を固め、プロリーグ創設に奔走した。26歳のときに難病になり、週2日の透析が欠かせない身でありながら、プロ化のために川淵三郎を総務主事に迎え、日本サッカー協会に働きかけた。