なぜ日本代表は世界トップクラスのチームに成長したのか Jリーグ誕生、呪われた10・26、ハンス・オフト監督の就任、加茂周監督の更迭…苦難の歴史を振り返る
岡野の決勝点でW杯出場決定
イランとの第3代表決定戦、マレーシア・ジョホールバルでの一戦は2-2のまま決着がつかず、ゴールデンゴール方式の延長戦に突入した。延長戦に入って岡田監督は熟考の末に岡野雅行を起用。岡野は快足を飛ばして何度も決定機を迎えるが、そのたびに外してしまい、思わず岡田監督も頭を抱える。 しかし延長後半も残り2分となったところで中田英が強シュート。イランGKが弾いたところ、岡野がスライディングで押し込んでついに決勝点を奪った。日本が実力でW杯のキップを初めて手にしたのである。 フランスW杯は1点差ながら3戦全敗で終わった。しかしジャマイカ戦では中山が日本の初ゴールを奪った。それが4年後のベスト16進出と、W杯7大会連続出場につながる第1歩になった。 98年フランスW杯の日本代表は全員が“国内組”だった。しかし4年後の日韓W杯ではGK川口能活(ポーツマス)、MF中田英(パルマ)、稲本潤一(アーセナル)、小野伸二(フェイエノールト)と4人に増えた。その数は大会を重ねるごとに増え、いまではスタメンの全員が“海外組”であり、欧州5大リーグでレギュラーとして活躍している。 暗黒の時代があったからこそ生まれたJリーグ=日本サッカーのプロ化と、その後の選手の“海外流出”による着実なレベルアップは日本代表の強化に欠かせない両輪である。それが日本代表の飛躍の原動力となっていることは疑う余地がない。
六川亨(ろくかわ・とおる) 1957年、東京都生まれ。法政大学卒。「サッカーダイジェスト」の記者・編集長としてW杯、EURO、南米選手権などを取材。その後「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。 デイリー新潮編集部
新潮社